渡邉大輔『『君の名は。』は日本映画に何をもたらしたのか 庵野秀明・岩井俊二・新海誠から読み解く現代日本映画史』を読んだので感想。
本書は、新海誠監督の『君の名は。』が公開され大ヒットを記録した2016年をひとつのターニングポイントとして、同年に新作を公開した庵野秀明、岩井俊二という作家に強くフォーカスし、新たな日本映画史のパースペクティブを提示しようとする試み。それは「おわりに」で端的に示されているが、1930年代・1950年代を日本映画の黄金期とみる「30/50史観」に対して、日本映画に新たな潮流が前景化した90年代と、その源流となる監督たちが精力的に活動した70年代の重要性を指摘し、その結実が2010年代に訪れるという「70/90史観」を提示する。
その際に主要な論点となるのが、メディアの垣根を超えた表現、「ポスト・メディア性」と、人間以外の存在に重きを置く「ポストヒューマン」的な視角で、デジタル技術の進展により可能になったそれらの表現を90年代にいち早く取り入れ、そして2010年代に一層それらを先鋭化させた作家を庵野秀明、岩井俊二とみる。「ポスト・メディア性」と「ポストヒューマン」的な志向は新海のフィルムにもみられ、それが本書が着目する3人の作家の共通する、「ポスト日本映画」的な特徴とする。
また三人の作家は、「暗い画面」をスクリーンに映す従来の映画に対して、テレビ的ないしミュージックビデオ的な「明るい画面」を映画に持ち込んだという意味で「ポスト日本映画」的でもある。この「明るい画面」はたとえば大林宣彦や実相寺昭雄など先行する作家にもみられるもので、それらを継承し、さらにはメジャー化させたのが庵野、岩井、そして新海の意義なのだとする。
以上、本書の議論をごくおおまかに素描してみた。「映画/ポスト映画」、「明るい映画/暗い映画」という構図をひとつの補助線として語られるこの史観が適当なものか、わたくしは判断する能力をもたない。が、一読した印象では、はっきりいってはじめにこの構図ありきで、そこに個別の作品を連想ゲーム的に当てはめていく、きわめてアドホックな議論としか思えなかった。
たとえば『THE FIRST SLUM DUNK』を評して、「半ばバスケットボールの試合をえんえんとライブ観戦しているような趣向」(p.42)・「情動的な「いま」しかない」(p.43)としていて、確かに山王工業戦を切り出して映画化するという趣向はバスケの観戦に近しいかもしれないが、宮城リョータの語られざる過去にフォーカスすることで、現在と過去を交錯させて現実のスポーツ観戦とは違った体験を提示したのが『THE FIRST SLUM DUNK』だと思うし、この時間感覚を「情動的な「いま」しかない」と表現することには強い違和感を覚える。この種の「まあそういえなくはないが乱暴に要約してそういうことにしている」感は、本書のさまざまな作品解釈に感じられるところで、それがアドホックな議論という感じを覚える要因の一つだろう。
そして、最終的に示される構図も、それがいかなる意味を持つのか、なんでそれを主張する意義があるのか、よくわからないのである。著者は「70/90史観」が従来の映画史を乗り越えるものだと主張する一方、306頁の図では従来の「30/50史観」に「70/90史観」が接ぎ木されたように表現されており、従来の史観の否定というよりは単に別の時代を論じているだけのように思える。70年代・90年代の重要性が30年代・50年代のそれを必ずしも否定するものとは思えず、結果として先行する構図に対しての「70/90史観」の意義を十分に論じられていないという気もする。
これは同著者による『セカイ系入門』での議論の整理から感じたことでもあるが、自分の思い入れのある作品群や作家を年表のなかにマッピングして、それは著者としては楽しい作業なのかもしれないが、それがいかなる意義があるのか、連想ゲームのおもしろみ以上のものがはっきりいってないと思う。
さらに気になるのは、(ざっと一読しただけのわたくしにすら目につくほど)脱字や情報の誤りがみられること。189頁の章タイトルは脱字になっているし、『花とアリス』の場面写真が引用されているのにキャプションには『花とアリス殺人事件』と記載があるのは閉口した(114頁、117頁)。さらに、『新世紀エヴァンゲリオン』の『犬神家の一族』をオマージュしたシーンは第5話「レイ、心のむこうに」と説明があるが(237頁)、正しくは第9話「瞬間、心、重ねて」である。「レイ、心のむこうに」はそんなコミカルな話じゃなくないか?
サブタイトルにまで名前を出した作家の作品についてここまでの誤記・誤りがあるとなると、本書で参照される膨大な映画についての言及がどれほど正確なものなのかあやしくなってくる。星海社は過去にとんでもない誤植の嵐みたいな本を出しているし(『ディズニープリンセスと幸せの法則』誤植等一覧 - 荻上式BLOGを参照のこと)、すこしは「ちゃんとした」本を出す努力をしてほしいものですね。
本書を読んでいると、批評とはなんと愚かでむなしくくだらない行為なのかと嫌になってくる。さまざまな作品を連想ゲームで拾い上げて自身の構図にあてはめて、それで「歴史」を立ち上げてなんの意味があるのか。本書にとって作品、ないし作家は、手前勝手なコラージュをするための駒にすぎないように思える。批評家の仕事は、作品を批評家自身に奉仕させることなのか。わたくしはそうは思わない。批評家のために作品があるのではなく、作品のために批評家はいるのだ。わたくしは批評という営為が(それまで誰も思いもよらなかった仕方で)作品・作家を輝かすということがありえると信じているし、それがまさしく批評の役目の一つだと思うのだが…。
7/8追記
著者もこの記事を読んだとのことです。
読んだ。ちなみに、誤植の一部は、校正過程での行き違いで生まれたもので把握してます。もし重版されたら修正したい。https://t.co/pZQedo5XQm
— 渡邉大輔@新刊『『君の名は。』は日本映画に何をもたらしたのか』3/18発売 (@diesuke_w) 2026年7月6日
はっきりいって、そんなことを「ちなみに」とか言われても、読者にとってはなんの関係もないですよね? 把握しているなら、上で引いた荻上のように自分や出版社のサイトやnoteで周知すべきでは…。根本的に読者を舐めているというきがしますね。
