『化け猫あんずちゃん』をみました。素晴らしかった!以下感想。
小学5年生の少女、かりんは、借金取りに追われる父親に連れられ、祖父の住む寺へとたどり着く。父親は借金を返済するのだと息巻いて、かりんは寺に残される。そこには齢三十を超えた化け猫、あんずちゃんが、平然と人間社会に溶け込んで暮らしていたのだった。
いましろたかしによる漫画作品を、久野瑤子、山下敦弘の監督によりアニメ映画化。久野瑤子といえば、岩井俊二監督作品『花とアリス殺人事件』での仕事ぶりが鮮烈であったが、この『化け猫あんずちゃん』でもロトスコープをもちいた作画が軽やかに躍動し、それがこの映画の唯一無二の魅力になっている。
前述の『花とアリス殺人事件』もそうだし、たとえば相当露悪的な意図を感じさせた『惡の華』など、ロトスコープを使った作品といえばどちらかといえばリアル調の画面を志向しているように思えるが、この作品はデフォルメされた漫画的なキャラクターのがロトスコープで芝居をつけられていて、その漫画的にもかかわらず人間の所作の重みを感じさせる質感が、みていて快かった。
特に印象的なのが歩行のシーンの重心(移動)の生々しさで、寺の床板を踏み歩いたときのきしみなど音響の効果の見事さもあって、漫画的に誇張されたキャラクターに確かな実在感を与えていた。それが「化け猫」の存在の確かさに、奇妙な説得性を与えている。
森山未來が声をあてているあんずちゃんは、平然と無免許でスクーターを乗り回し、マッサージ師のような仕事で日銭をかせいだり、パチンコに興じて有り金をすったりする、完全におじさんの類型のようなキャラクターで、そこに猫のガワがかぶさっていることにより絶妙に許されている。ロトスコープの効果の一つはこの猫型のおっさんになんか実在性を付与しえてしまったことにあって、そのことでこの映画はなにかとても愛おしく、頼もしいものになっている。
傷ついた少女がこの化け猫と触れ合ったり触れ合わなかったりするうちに、癒されたり癒されなかったりするこの感じは、北野武の『菊次郎の夏』とか、長嶋有「サイドカーに犬」とか、そういう「変な大人」と子どもの交感を描く作品の類型のうちにおさまっている。とはいえそれらの作品と比べてセンチメンタリズムは希薄で、しばしば舌打ちを繰り返す少女の佇まいのように、かわいそうな感じも、弱弱しい感じもしないのがすばらしい。
地獄を飛び出した鬼たちに追いかけられて東京を疾走するシークエンスの、間の抜けた疾走感・カーニヴァル感や、母との死別という主題にもかかわらず、全体としては重くなりすぎない軽やかさとか、この映画の美点はたくさんあるが、とにかく楽しく心地よく時間が過ぎていく、そのことに大きなありがたみを感じたのだった。