先日、『輪るピングドラム』を観終えて、その感想を以下の記事に書きました。
『輪るピングドラム』感想 きっと何者にもなれない人のための「生存戦略」 - 宇宙、日本、練馬
この記事では、作中で最も印象に残った台詞である「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」をとっかかりに、僕の考えたことを書いてみたんですが、この台詞には解釈の余地がかなりあるよなー、と感じました。それをTwitterで呟いてみたところ、いろんな反応を頂きまして。そのまとめが以下のやつです。
『輪るピングドラム』 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。」の解釈 - Togetterまとめ
それをもとに自分の考えを整理しておこうと思います。気が向いたら追記するかも。
「何者にもなれない」=アイデンティティ確立の困難さ
僕が先日書いた記事では、「何者にもなれない」ということは、アイデンティティの確立が困難である状況のことを指している、と解釈した。こう解釈すると、「何者にもなれない」という状況を背負うのは高倉兄弟よりもむしろ、親の愛情をうけられなかったために、「選ばれない」という感覚を持つに至った多蕗桂樹と時籠ゆりの二人であるように思われる。
そんなことを軸に感想を書いたわけだけれども、作中で「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という台詞を投げかけられるのは高倉晶馬と高倉冠葉なわけで、どうにもしっくりこない。なぜなら高倉兄弟は生まれながらにして「呪い」をうけているといえるので、不可避的に「何者か」にならざるを得ない。呪われた何者かとして生きるを得ないという状況におかれている。これは多蕗やゆりが背負う「アイデンティティ確立の困難」とは異なる問題であることは明らかだ。
「何者にもなれない」=未来がない
不可避的にネガティブなアイデンティティを引き受けざるを得ない高倉兄弟が、なぜ「きっと何者にもなれない」のか。この二人の結末から考えてみると、「何者にもなれない」とは、不可避の消滅の運命を背負っている、つまり「未来がない」ということになるのではないか。この解釈は、Twitter上でご教授いただいたものだ。
高倉兄弟は、まわりまわった因果の果てに、「呪い」をひきうけ、遺されるものに「祈り」を託して消滅することになった。大人になることがなかったわけだ。大人になれないことで、「何者かになる」という可能性そのものが奪われてしまった。「呪い」によってこの結末が予感されていた、という意味で高倉兄弟は「きっと何者にもなれないお前たち」だったと。
この解釈だと、「きっと」という部分がほのかな希望を示唆しているようにも思える。冒頭では、それはまだ漠然とした予感でしかないわけだ。しかし結果的に消滅を選んだ高倉兄弟のことを思うと、この「きっと」はある意味残酷な言葉にも思えてくる。
T・K、オウム、N・N…
ティッシュ専用ゴミ箱 『輪るピングドラム』物語の全体構造と、関連著作など考察まとめ。
こちらの放置は危険 @houtihakikenさんのブログでは、見田宗介やら大澤真幸の著作なんかが、ピングドラムを読み解く参考文献として挙げられている。
大澤が『虚構の時代の果て』で取り上げたオウムは、ピングドラムにも計り知れない影響を与えていることは明らかだ。もう一度読んでみたらまた発見があるかもなので再読したい。
追記 見田宗介『まなざしの地獄』は読了。以下感想記事。
『輪るピングドラム』における「運命」ー『まなざしの地獄』から考える - 宇宙、日本、練馬