宇宙、日本、練馬

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『輪るピングドラム』における「運命」ー『まなざしの地獄』から考える

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 『輪るピングドラム』は、「語り」たくなるアニメだと思う。以下の記事で自分なりに感想をまとめてみたけど、まだ語りつくせた気がしない。その「語りつくせなさ」が、本作のなによりの魅力なんだろうと思う。

『輪るピングドラム』感想 きっと何者にもなれない人のための「生存戦略」 - 宇宙、日本、練馬

 先日読んだ、見田宗介『まなざしの地獄』が、ちょうど高倉冠葉、高倉晶馬の「運命」と強くリンクする本だったので、今回はそれと絡めて思ったことを書いておこうと思う。

 都市という「まなざしの地獄」

 見田宗介『まなざしの地獄』は、1960年代後半に連続射殺事件を引き起こした凶悪犯罪者N・Nこと永山則夫の分析を通して、当時の都市、ひいては社会の特質をとらえようと試みている。なぜ、約半世紀も前の社会の状況と、『輪るピングドラム』がリンクするのか。それは、永山則夫を犯罪へと駆り立てた他者たちの「まなざし」が、高倉兄弟を呪縛する「運命」を成形したものと強くリンクすると感じるからである。

 

 郷里をはなれて東京に働きに出るが、何度も職場を転々とする。ある職場をはなれる原因となった出来事のひとつが、戸籍に書かれた出生地をからかわれたことだった。それを見田は以下のように分析する。

「戸籍」そのものは、無力な一片の物体にすぎない。この無力な紙片に、一人の人間の生全体を狂わせるほどの巨大な力をもたせるものは何か?

  それはこの過去性にひとつの意味を与えて(網走=犯罪者の子弟=悪、等々)、彼をあざけり、彼にその都度の就職の機会を閉ざし、彼の未来を限定する他者たちの実践である。

  <過去が現在を呪縛する>といっても、この場合「過去」が生きているもののごとくに本人の生に立ちふさがるというわけではない。人の現在と未来を呪縛するのは、この「過去」を本人の現在として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である。 

見田宗介『まなざしの地獄』p38

 

 高倉兄弟が犯罪者の息子として逃れられない呪縛のなかにいるとしたら、永山則夫もまた、(事実とは異なるにせよ)犯罪者の息子というラベルを張られた人間だったのだ。永山は、それが虚偽であるにも関わらず、そのまなざしから逃れることはできないと感じたのだろう。高倉兄弟、とくに高倉晶馬も、「テロリストの息子」というある意味での過去を、まさに現在のものとして差し向けるまなざしから逃れられず、まさに呪いの中にいるのである。

 また見田は以下のようにも述べる。これは、作中で繰り返し語られる「運命」とはいかなるものかを考える上で非常に示唆的だ。

 そしてこれらの表相性としての対他存在こそが、都市の人間の存在をその深部から限定してしまう。けだし人間の存在とはまさに、彼が現実にとりむすぶ社会的な関係の総体に他ならないが、これら表相性への視線は、都市の人間がとりむすぼうとする関係の一つ一つを、その都度偏曲せしめることをとおして、執拗にそして確実に、彼の運命を成形してしまうからである。

見田宗介『まなざしの地獄』p41

 この他者の視線における「運命」の成形、それこそ永山則夫を犯罪へと向けさせた。そして高倉兄弟の「運命」を成形したのもまた、この他者たちの実践ではなかろうか。テロリストの息子という「過去の呪縛」から、高倉晶馬は逃れられず苦悶する。それは「過去の呪縛」はたんなる「過去」ではなく、他者たちの実践によって形作られるという意味で途轍もなく現在性のあるものだからである。そうしてまさ現在進行形で、呪われた運命が成形される。

  まなざしを通して運命を成形するという他者たちの実践は、作中では具体的な形をとって描かれることはなかったように思われる。しかし、高倉晶馬の葛藤はまさに見田の分析した「まなざしの地獄」を典型的な形で表現しているようにも読み取ることが可能である。それはなぜか。おそらくそれは、『輪るピングドラム』がリアルに実在する都市である東京を舞台としているからだろう。そこで、ピクトグラムの形を描かれる他者たち。その極度に抽象化された姿かたちをとってなお、「実在する場所」において彼らは描かれる。そのことで抽象的な他者たちの存在は途方もなくリアルな実在となる。実在する場所の抽象化された人間たちは、まさに「まなざしの地獄」を生きるリアリティを表現するための手法なのではなかろうか。『輪るピングドラム』が実在する東京を舞台とするのは、ある意味で必然だったのだ。

 

「きっと何者にもなれないお前たち」

 以前から、僕は「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というフレーズにひっかかっていた。

『輪るピングドラム』メモ 「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」への解釈 - 宇宙、日本、練馬

  それを「まなざしの地獄」の文脈で考えるならば、「何者にもなれない」とは、他者たちのまなざしによって運命を成形されたことによって、袋小路に立たされているような状況のことを指すのではなかろうか。

 

「まなざしの地獄」の越え方?

 運命を決定づける他者たちのまなざし。それから逃れることのできないディストピアとしての都市東京。見田の論考は、そんな我々の現在性、まなざしまなざされる主体の呪われた運命を示しているようにも思われる。

 われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方なかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

見田宗介『まなざしの地獄』p73

 しかしそのような「まなざしの地獄」の乗り越え方というか、それを打ち破る可能性をも、『輪るピングドラム』は提示しているようにも思える。しかし高倉兄弟の辿りついた結末から考えると、その困難さは途方もないもののようにも思える。過去の呪縛によって成形された運命から逃れることは、命を投げ出すほどの覚悟をもってなされる跳躍によってしか不可能なのか。それほどの跳躍をもってしてなお、呪いからは逃れられずに消え去るしかないのか。それはあまりにもニヒリスティックだ。

 しかしこれは、一面の真実をついているようにも思える。永山が獄中でようやく「まなざしの地獄」から解き放たれたと感じたのと同様に、高倉兄弟が過去の呪縛から逃れるためには、一度消滅するしかなかったのかもしれない。都市の中では他者たちのまなざしのから逃れることはできないのだから。

 とはいえ、高倉兄弟が究極的には呪いから逃れられなかったとしても、その尽きなく生きようとする意志で選びとって、守り抜いたものがあったはずだ。それは、妹である高倉陽毬と荻野目苹果それぞれの「運命」、そして彼女たちとのかけがえのない関係性であったように思われる。高倉兄弟の、「まなざしの地獄」にあってなお、他者との関係性を求め続けた。

 他者とはいかなる存在なのか。見田は別の論考でこう述べる。

他者は第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。一切の他者の死滅したのちの宇宙に存続する永遠の生というものは、死と等しいといっていいものである。[わたしは子どもの頃「永遠の生」を願って、この願いの実現した幾兆年後の宇宙空間にただひとりでわたしが生きている生を想像してみて、他者のない生の空虚に慄然としたことがある。] 他者は第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である。サルトルが言っていたように、「地獄とは他者に他ならない」。想像のものでなく現実のものとしての地獄は、(無理をして例外を思い浮かべることはできるが、)ほとんどが、他者の地獄に他ならない。

 見田宗介社会学入門』p172

   この他者の両義性の後者に対応するのが高倉兄弟の運命を形作った「まなざしの地獄」だとしたら、前者への対応するのは、作中で描かれた無数のかけがえのない関係性ではなかろうか。それは、高倉兄弟の築いたものだけではないのは明らかだ。

 「まなざしの地獄」にあってなお、他者と関係したいと願い続けた高倉兄弟。苦しみの中でも、生きることの意味を他者に求め続けたその姿に、僕は胸をうたれたのかもしれない。

 

 twitter上で示唆をいただいて『まなざしの地獄』を読んでみたけれども、確かに偶然とは思えないほどピンドラとリンクしていた。それを補助線として考えてみたけれど、まだまだ「引き出せていない」ものがあるなーと思う。もうちょっと考えたいなと思います。

 

5月7日追記。また書き足す、書き直すかも。 

 

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まなざしの地獄

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