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運命の再生産、あるいは冷たい幾原邦彦——『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』感想

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」ベストアルバム(通常盤)(特典なし)

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』をみました。以下、感想。

  名門演劇学校、聖翔音楽学園。少女たちがトップスタァを目指し切磋琢磨する学び舎の地下では、その少女たちが決闘めいたオーディションを繰り広げていた。虚構と現実、記憶と追想とが混淆する舞台の上で、少女が見出す運命とは。

 『輪るピングドラム』などにスタッフとして参加していた古川知宏の初監督作品。アニメーション制作はシネマキトラス。放映時のコマーシャルを眺めていると、声優による舞台と、ソーシャルゲームなどをふくめたメディアミックス作品の一つという印象が強く、マスプロダクト的な印象を強く受ける。そうしたコンテンツ展開(とりわけ声優によるライブ)は『ラブライブ!』や『アイドルマスター』を想起させるし、キャラクターデザインも『ラブライブ!』の面影をどことなく感じる。

 また、作劇においても、「謎めいた寡黙な転校生」、中盤で明かされる「繰り返し」の仕掛けなど、いかにも10年代的な『魔法少女まどかマギカ』フォロワーと位置付けてみてもよいだろう。そうした先行する作品群のモチーフはそこかしこにみられるが、とりわけ幾原邦彦監督『少女革命ウテナ』については、明確にその再演を意識していたのではないかと推察する。少女による決闘、決闘前の仰々しいバンクシーン、また決闘中に流れるボーカル付きの楽曲など、ほとんどあからさまといってもいいだろう引用。

 一方で、『少女革命ウテナ』にみられた、他者の不気味さが露わになるようなモーメントは後退し、各キャラクターに焦点があてられる挿話はあくまでウェルメイドで記号的なものにとどまる。他者という暗闇への慄きは後退し、あくまで微温的な関係性のなかにキャラクターはやすらう。キャラクターはソーシャルゲームにおいて安心して「消費」できる「商品」のような相貌をまとっている、とさえいいうるかもしれない。それが作品の優劣を決定する、とまで言うつもりはないが、そのような意味で、二つの少女の物語のあいだには決定的な線が引かれている、と思う。

 そのうえでこの『レヴュースタァライト』のクレバーさは、そうした先行作品のコラージュであるという自身のありかたを、舞台という仕掛けを用いることで、作中において明確に引き受けている点にある。

 第7話「大場なな」において明かされる、作中の時間が幾度となく繰り返されているという事実。そして何より、作中の「スタァライト」が、1年越しの「再演」なのだということが何度となく強調されるのは、この作品もまた数多のフィクションの「再演」に過ぎないかもしれないという不安と自覚とを、作品のなかに織り込むためではなかったか。それはまた、先行する作品群のモチーフを借り受けた、商品としての「再生産」という作品の位置を明確に引き受けるという宣言でもあるだろう。

 作中で、大場ななの勝利によるやすらかな時間の無限の繰り返しは否定され、そして結末においては別離の悲劇としての「スタァライト」は、そのアンコールでハッピーエンドが語られたことが示唆される。「再演」・「再生産」であるからこそ、演じられうる可能性として、この作品は自身を再表象する。

 ループとその否定という主題系は、たとえば押井守という作家の記憶も想起する。

「いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。 いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。 それだけではいけないのか。 それだけのことだから、いけないのか」

 この問いに対して、私たちは日々新しくなるのだと明快に返してみせる少女のきらめき。その無法な明るさを素朴に肯定していいのか、わたくしにはやや判断しかねるところがある、というのが正直なところではある。また、観客のメタファーとしての不気味なキリンを含みこんだ、きらめきを喰らう舞台というシステム自体は特に問われることなしに温存されてゆく。

 しかし、その舞台の呪いすらも引き受けて、私たちは「再生産」されてゆくのだ、という決意表明に似たものを、この作品のなかに感じもする。思えば、幾原邦彦のフィルモグラフィにおいても、生物的な出生のタイミングではないどこかで「ふたたび生まれる」ことは、つねに最も輝きをもつ瞬間として繰り返し描かれてきた。『少女革命ウテナ』における「王子様」との出会い、『輪るピングドラム』で林檎が手渡された瞬間、等々。そのような瞬間と出会ってしまったとき、人はもう一度、生物学的でない仕方で「ふたたび生まれる」のであり、それがその人の人生を規定するがゆえに、その瞬間はしばしば「運命」と呼びならわされるのである。

 対して、「再生産」という言葉は、「ふたたび生まれる」という含意を含みこみつつ、より硬質で、人工的な響きがある。幾原邦彦の作品群においては「ふたたび生まれる」ことは偶有性をもった奇跡的な出来事であったが、この『レヴュースタァライト』においては、オーディション前に衣装が機械的に編み上げられるのと同様、極めてシステマチックなものでしかない。

 もはや我々にとって偶有的に「ふたたび生まれること」の奇跡はとうに奪い去られ、極めてシステマチックに「再生産」されるにまかせるほかないのかもしれぬが、そのなかですらきらめく「あたらしさ」は生まれうるのだと、この『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は歌う。そのたたずまいに信を託し、来る新作劇場版にてさらに新しいフィクションが語られることを、素朴に期待します。

 

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