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姫は悪い魔法使いを救えるか?――『アリーテ姫』感想

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 立川シネマシティの片渕須直監督特集上映で『アリーテ姫』をみました。初見だったんですが非常によかったです。以下感想。

  いまではないいつか、ここではないどこか。城には王様がおり、その高い塔には美しいと噂される姫君がいた。城下には人々が、いろいろなものをその手でこしらえて暮らしていた。姫君は城の外の暮らしに焦がれていたが、王や臣下たちはそれを知ってか知らずか、「経済」のために姫を餌にさまざまな魔法の遺物を冒険者に献上させていた。そんななか、不意に魔法使いを名乗る男が城にあらわれ、姫君に求婚、自らの城へと連れ去ってしまう。自由に羽ばたく意思すら魔法で奪われた姫君は、外の世界へ足を踏み出すことができるのか。

 ダイアナ・コールスによる原作を映画化した本作は、表題通りアリーテ姫の物語が語られるのと同時に、その鏡像である「悪い魔法使い」ボックスの物語を語る。(原作は未読なので憶測にすぎないが)この映画の着想の要は、その「囚われの姫君」の物語と「悪い魔法使い」の物語を見事に重ねあわせて語ってみせた点にある。

 ここで想起されるのは、『少女革命ウテナ』における「お姫様」と「王子様」という関係対であり、すなわち「姫を救い出す王子様」こそがむしろその姫を呪縛し閉じ込めていたという逆説、そして自由で無比の力をもつ王子様こそが、その実極めて限られた「庭」のなかでしかその権能を振るうことができない、「庭」に閉じ込められた存在に過ぎなかったという結末である*1

 よく知られた童話のフレームを鮮やかに読み替えた、という点で『少女革命ウテナ』を僕は想起したのだけど、そのような例は他にもあるのでしょう、おそらく。しかし「悪い魔法使い」ボックスは、学園という庭の「王子様」である鳳暁生のあり得たかもしれない別の姿であり、『アリーテ姫』という作品自体が、『少女革命ウテナ』において学園に置き去りにされた鳳暁生を、ほのかに救済しようとする物語として見立てることができるように思うのです。

 魔法使いはなんでもできる、その杖によって。杖なしでは、魔法使いは何もできない。さながら文明の利器なしでは何もできない私たちの如く。しかしこの世界の人々はどうか。彼らは作る、その手で。美しいガラスを、丁寧な刺繍を、鮮やかな色を。それを私たちはこの物語の冒頭で知る。

 それでは城のなかで暮らし、何を作ることもなく暮らしたアリーテ姫はどうか。彼女すらも、何かを作り出すことができるのだ。何が手元になくとも、その心で。自由な意思すら奪われてなお、彼女の心は物語を紡ぎだす。そしてわるい魔法使いにすらも、その力は備わっているのだ。

 現実と対峙するために何かを作り出す、という所作は、片渕監督の最新作『この世界の片隅に』におけるすずさんのそれとも重なるし、『マイマイ新子と千年の魔法』も、そうした想像力のもつ可能性をポジティブに描いていた。すずさんはその意味で、アリーテ姫をより過酷な現実に置きなおして語りなおした存在であるようにも思う。

 自身の心のもつ力、想像力によって、世界と対峙する。その所作を、革命とよびならわすこともできるだろう。その世界を革命するちからを、わるい魔法使いに、ひいては彼の似姿たる私たちにも分有させてみせたところに、『アリーテ姫』の希望はある、ような気がする。

 

関連

 

 だいぶ前に書いたやつなんであれなんですが、一応。

amberfeb.hatenablog.com

 

 

  かつて書いた『この世界の片隅に』の感想は「絵を描く」というモーメントを語り落しているので決定的にダメですね。論外。

amberfeb.hatenablog.com

 

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【作品情報】

‣2001年

‣監督:片渕須直

‣脚本:片渕須直

‣出演

*1:少女革命ウテナ』がほんとうにそのような物語だったのか?と問われると、いささか自信がない、しばらく見返してないので。コメント欄であれしてください