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生きられる信仰、敗退する近代――マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』感想

世界終末戦争

 世界の終わりの予感があったのでマリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』を読んでいました。以下感想。

アンチ・キリストは生まれた。ブラジルを支配するために。

しかし、コンセリェイロがいらっしゃる。わたしたちを解放してくださるために。

  時は19世紀末。ブラジルの内陸部(セルタンゥと名指される)に生きる人々は度重なる干ばつにより疲れ切っていた。まだ年若い共和国が近代国家としての体裁を整えるため税制を整備しつつあったことも、人々に追い打ちをかける。そんなとき、一人の苦行者がセルタンゥの人々の心をとらえつつあった。その男の名は、アントニオ・コンセリェイロ。虐げられた者どもがキリストの再来とも噂される狂信者のもとに集うとき、彼らと彼らを痛めつける近代国家との戦争が始まりを告げる。

 19世紀末に現実に起こった、ブラジル史上最悪の内戦ともいわれる「カヌードスの乱(カヌードス戦争)」。その内乱を取材した同時代の著作、エウクリーデス・ダ・クーニャ『セルタンゥ(奥地)』*1に着想を得て書かれた小説がこの『世界終末戦争』である。

 様々な立場の人間が入れ代わり立ち代わり登場し、視点と時制とがめまぐるしく交錯しつつ、戦争の始まりから終結までが描かれるのだが、その複雑な語りからは想像できないほどぐいぐい読ませる力がある。とりわけ序盤は、殺人や略奪を繰り返してきたどうしようもない山賊や、身体の障害を理由に迫害されてきたものなど、恐ろしい悪党から虐げられてきたものまで唐突にエピソードが挿入されたかと思えば、いつの間にかコンセリェイロの宗教的カリスマに引き寄せられ仲間になっていく展開が『水滸伝』じみていて楽しい。

 このコンセリェイロという宗教指導者については作中でそれほど直接描写はなく、むしろその周辺の人物たちに多くの紙数が割かれるので、空虚な中心的に機能しているような気がするのだが、彼の存在によって本書はキリスト教の再解釈というか、そういうテクストとしても読める、という感じがする。ナザレのイエスの時代の原始キリスト教を思い起こすならば、それは明らかに反権威の色を帯び、そしておそらくは、もっとも虐げられた者たちのための祈りがそこにはあったのだ。だから、最も貧しくもっとも虐げられたセルタンゥの人々は、まさに自分自身の物語としてキリスト教という宗教の物語を生きることができたのだろう。それはおそらく、彼らと対峙したブラジル国軍にとって、理解を絶する彼岸の出来事でしかない。彼らは世俗化した近代国家の物語を生きるものたちなのだから。

 この小説をつらぬく近代対野蛮という対立軸は、その野蛮の側にキリスト教というファクターが組み入れられていることで、微妙にずらされている、という感じがする。南米におけるキリスト教はそもそも、植民地支配の過程で西洋=文明≒近代の側からもたらされたものである。それが、西洋的なものからは遠ざかった内陸部(とはいえこの内陸部にも西洋由来の大土地所有制度がもちこまれてはいるのだが)で、文明と対置される野蛮を生きる人間たちによって、極めてリアルなかたちで、その起源の反復ともいえるような仕方で生きられるという構図が、なんというか非常におもしろい、と思いました。

 作中で近代的なるものの具現ともいうべき人間が二人いて、一人は超有能な軍人モレイラ・セザル、もうひとりはアイルランド生まれパリコミューン育ち悪そうなやつに利用されがちなアナーキストガリレオ・ガル。ごく単純に整理すると前者は近代国民国家のようなナショナルな近代性、後者は社会主義者のようなインターナショナルな近代性のそれぞれ代表として、作中の近代性のいわば裏表をなしている人物として中盤までは大きな存在感を発揮するのだけど、これが驚くほどあっさり退場してしまうのですよね。そこらへんにもなんというかこの作品における近代とはなにか、みたいなあれがね、あると思うんですよ。

 

 

  今年にはいって「カヌードス戦争」について日本語で読める研究書も出版されたことですし、読むなら好機ですよ、きっと。

カヌードスの乱――19世紀ブラジルにおける宗教共同体

カヌードスの乱――19世紀ブラジルにおける宗教共同体

 

 

世界終末戦争

世界終末戦争

 

 

 

少女終末旅行 6巻(完) (バンチコミックス)

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*1:邦訳はなさそう。