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退屈な「まぼろし」、その可能性の中心────『アリスとテレスのまぼろし工場』感想

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 『アリスとテレスのまぼろし工場』をみました。いや、すごいですね。以下感想。物語上の重大な仕掛けに触れています。

 日本列島、海と山とに囲まれた小さな街、 見伏。街の産業の中心ともいえる製鉄所での大きな事故以来、そこでは誰も街の外に出ることはできず、永遠の冬が続き、子どもたちの成長も止まっていた。終わりない日常が続くなかで、人々は倦み疲れ、中学生たちはしばしば刹那的な快・不快に身をゆだね無限に続くかと思われる時を過ごしていた。

 中性的な容姿をもつ中学生の少年、菊入正宗は、「気になる」存在である同級生、佐上睦実によって、不可思議な力で稼働を続ける製鉄所の内部に誘われる。そこには睦実の面影を感じさせる、幼い少女がいた。幼児のような振舞いをするこの少女はいかなる存在なのか、そして終わらない日常に終わりは訪れるのか。少女・少年たちが対峙する、この世界の終わり。

 『さよならの朝に約束の花をかざろう』に続く、岡田磨里の監督作品2作目は、閉鎖空間を舞台に、少年少女たちの人間関係、そして彼女ら彼らを取り巻く世界の命運が描かれる。序盤、端的な説明台詞は慎重に排され、この街はいったいどうなっているか、という謎が次第に明らかになっていく展開はややスロウだが、むしろそうしてこちらを宙づりにしてお話を進めていく手際の見事さを賞賛すべきだろう。

 そして、この街をとりまく世界が時間的にも空間的にも閉ざされていることが明かされ、この世界からの脱出こそがドラマの駆動因になるかと思えば、しばし後に脱出の不可能性が示され、着地点が途端にみえなくなる。作中の少女少年たちの、先の見えない不安のことを想起するならば、こうして観客を宙づりにするストーリーテリングは作品世界と私たちを接続するための回路として的確に機能しているとも思う。単純に、先の読めないドラマを素朴に楽しめたことは嬉しかった。

 中盤、作品世界は神の宿った製鉄所が稼働することで維持される「まぼろし」に過ぎず、その外部には(というかまぼろしと重なる形で)時の流れる現実世界が確固として存在し、「まぼろし」である少年たちは外部には決して出ることがかなわないことが明らかになる。ここに、押井守監督による『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の現代的な変奏をみてとることもできよう。かつてあれほど生き生きとした狂騒として描かれた終わらない日常に対して、この『まぼろし工場』のそれは静止した冬景色も手伝って倦怠感に満ちている。いつ終わるともしれぬ退屈な地獄、それこそがわたくしたちの世界なのであり、ゆえに世界の終わりはある種の解放でもありえてしまうような、そんなどんづまり。

 しかしこの『ビューティフル・ドリーマー』、あるいはセカイ系の変奏のような世界設定に風穴を開けるために、岡田磨里という作家は自覚的にフィクションのフィクション性を物語上に導入する。『さよならの朝に約束の花をかざろう』では主人公たち不老の種族がフィクションのメタファーとして見出されたことを想起するならば、この作品世界の「まぼろし」たちもまた不老の存在という意味でフィクション性を付与される。このフィクションの登場人物たちもまた変われるのだし変わってよいのだと肯定することで、そうした自立したフィクション世界が老いて死にゆく「わたしたち」を現実に還すのだというゴールが設定され、そして「まぼろし」とわたしたちは一旦切断されるが、しかしそれがフィクションの終焉を意味するのではなく、自己運動する可能性を宿してまぼろしの世界は朝を迎える。

 たとえば庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』や、スティーブン・スピルバーグ監督『レディ・プレイヤー・ワン』が直截に語った「現実に帰れ」というメッセージは、とりわけ後者においてはかならずしも有効でなく、空疎な響きすらまとっていた。この『アリスとテレスのまぼろし工場』はまさしくわたしたちを「現実」に返すお話なのだが、それと同時に終わりなき運動体としてのフィクションの可能性をも謳いあげていて、その意味でようやく、現実に帰るべきなのだという主張が実質を得たという気もしている。

 秩父を舞台にした作品、とりわけ『空の青さを知る人よ』で、閉ざされた場所としての盆地を描いてきた岡田が、こうしたかたちでその文脈をフィクショナルなかたちで変奏し、そして明確なのぞみを描き得たこと。そのことに、何故だか救われるような心持になったのであった。

 

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セカイ系の文脈でいえば、『凪のあすから』で繰り延べにされた「世界の終わり」と真っ正面から対峙してみせたという意味で、岡田の現在の到達点といっていいんじゃないでしょうか、『まぼろし工場』。

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これは『凪のあすから』もそうなんだけど、「世界の終わり」が、決定的なカタストロフがきてはいおしまい!ではなくて、じわじわとおしまいになっていくようなトーンなのはおもしろいというか、いま「世界の終わり」を描くならそうなるよね、というのは感じた。ポスト震災からポスト感染症へのモードの移行…つったらあまりに雑すぎるか、『凪のあすから』の放映年はあれだし。

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ビューティフル・ドリーマー』のフォロワーとしてまっさきに想起する『叛逆の物語』からすでに10年…

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しかし、呉市の製鉄所が全設備停止の報道があった日の翌日に公開とは、なんというか「持ってる」感じがしますね。