『アステロイド・シティ』をみました。以下、感想。
アメリカ合衆国、砂漠のただなかにあるほんの小さな街、アステロイド・シティ。隕石のクレーターが観光名所であるその街に、科学コンテストの優秀賞に選ばれた少年少女たちが授賞式のために集まっていた。妻を失った戦場カメラマンや売れっ子喜劇女優など、個性的な保護者達も思い思いの時を過ごしていたが、夜の天体観測中に突如エイリアンがあらわれて...。
ウェス・アンダーソン監督の最新作は、上記の筋立ての演劇を、その制作の裏側を取り上げるテレビ番組を通して眺めるという構造になっていて、何重もの枠物語であるホテルをめぐる神話を描いた『グランド・ブダペスト・ホテル』、雑誌という媒体そのものをスクリーンに再現したかのごとき『フレンチ・ディスパッチ』等々に続いて、その構造の時点で個性的な映画になっている。
荒野の真ん中のアステロイド・シティは書き割りの舞台装置のようであり、近年のウェス・アンダーソン作品同様、キッチュで人工的な画面の美は、もはや自己模倣の域に達しているようにも思える。半年ごろ前だっただろうか、画像生成AIをもちいてウェス・アンダーソン風の『スター・ウォーズ』の予告編がSNSで流れてきたことを記憶しているが、このようなルックの力でもって固有名が想起される現代の映画監督はそういないだろうし、この画面のもたらす快がやはりこの映画の魅力であることは疑いはない。
舞台演劇とその裏事情とが同時並行するストーリーテリングによって、舞台上で演じられるペルソナと俳優個人のリアルとが混淆していくおもしろさは、わたくしたちがしばしば映画やフィクションを眺める際の視線を構造的に作品のなかに取り込む、ある種の視線誘導のようにも思える。「目覚めるためには眠るしかない」というテーゼはしばしば怠惰に眠るわたしたちを肯定しているようでもあり、そのようにして自分の力ではどうにもならないいま・ここを引き受けてみせる所作に、微かに勇気づけられたようなきがした。