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暮れゆく海に潮騒を聴く——『凪のあすから』感想

凪のあすから 第9巻 (初回限定版) [DVD]

 ようやく『凪のあすから』をみました。もっとはやくにみておくべきだったという気もするし、いやいまこのときこそみるべきタイミングだったという気もします。以下、感想。

 日本列島のどこかと思しき場所。海沿いの街。そこでは、陸地だけでなく、海中にも人々が住み、交わりあいながら暮らしている。海に住む人々は、海の神から授かったという体質——皮膚の表面にうかぶ「えな」という被膜を通して海中でも呼吸ができ、独自の文化のなかで歴史を紡いできたが、陸地の人とのあいだにできたこどもには「えな」が発達しないことから、陸地にもましてひなびているようにみえ、中学校も廃校になり、そこに通っていた少女、少年たちは陸地の学校に通うこととなる。いままで海で一緒に過ごしてきた4人の幼馴染が、陸地の少年、少女たちと出会い、それがさざなみを引き起こす。そして、彼女・彼らをとりまく世界もまた、大きな変化が起きようとしていた。

 2013年から2014年にかけて放映された、ファンタジックな舞台設定で展開される青春ドラマ。監督は『RDG レッドデータガール』や、のちに『色づく世界の明日から』をてがけることになる篠原俊哉で、それらの作品と同様、アニメーション制作はP.A.WORKS。シリーズ構成は岡田磨里がつとめ、男女間の生々しい感情の動きや、キャラクター自身が自立してドラマを駆動していくような展開は、『true tears』や『とらドラ!』を想起させるし、幼馴染のあいだに生じる時差がモチーフとなる点は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』から継承した問題系とも思える。

 ゴーストストーリーであった『あの花』はともかく、超現実的な仕掛けがなかった『true tears』や『とらドラ!』に対して、この『凪のあすから』では現代日本と相似形ではあるものの、作品世界それ自体にファンタジー的な要素を組み込み、それがキャラクターたちに試練を課すことになる。その後、岡田は監督をつとめた『さよならの朝に約束の花をかざろう』で架空世界を舞台としたファンタジーを語ることになるが、その意味でこの『凪のあすから』は岡田のキャリアのなかで一種の飛躍を果たした転換点といいうるのかもしれない。

 舞台となる海沿いの街は、造船所は放棄され、スーパーマーケットはみるからに場末の雰囲気をまとうなど、衰微の過程にあることが示唆される。家屋にみられる、おそらく潮風の影響だろう錆などの表現も丁寧で、このあたりは美術監督としてクレジットされている東地和生らの手腕がいかんなく発揮されているのではないかと推察するが、美術に下支えされた黄昏の雰囲気は、この作品世界そのものの運命を暗示してもいる。

 中盤、異常気象による寒冷化の進行を危惧し、海の住民たちが冬眠に入ろうとすると、それまでの青春ドラマ的な雰囲気は後退する。「きみ」と「世界の命運」とが主題となる、いわゆる「セカイ系」的な構造が一気に前景化し、そして「冬眠」が幼馴染たちの運命を大きく変えることになる。この中盤の飛躍と、それがドラマに持ち込む「時差」が、この『凪のあすから』のドラマに強烈な吸引力をもたらしている。

 冬眠せずに時を過ごした少女も、冬眠に入って5年後に目覚めることになる少年・少女も、それぞれがあるべき時間から「おいていかれてしまった」という感じをそのたたずまいに宿すようになる。それが都市部の喧騒から遠く離れ、「置いていかれた」ひなびた街の姿と重なることで、この作品自体もまさに、どうしようもなく置き去りにされた、されてゆく周縁部に生きる人たちの物語として立ち現れていく。

 冬眠のなかで大事なものを失ってしまったらしい少女の運命は、どうやら進行しつつある寒冷化という「世界の終わり」と結びついているらしいことが語られもする。世界の終わりと少女の運命というモチーフは、まさしく秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』など、セカイ系の典型としてしばしば語られる作品群と共通するものであるし、さらに後年公開されることになる新海誠監督による『天気の子』は、異常気象と少女の生贄という点でこの『凪のあすから』と大きく重なる。

 『天気の子』が世界の終わりと真っ向から対峙することを少年に課したのに対して、『凪のあすから』でのそれは、作品世界のなかでは過激な形で現前せず、数百年後に到来するらしいと示唆される。その時差によるところも大きいだろうが、この作品では世界の終わりと少女の運命はトレードオフのものとしては描かれない。少女・少年らの切実な思いと必死の行動によって、少女は大事なものを取り戻す。こうして日常は回復し、世界の終わりはあくまで来るべきものにとどまり、その後の少女・少年たちの営為によって覆される可能性を示唆して物語は閉じられる。

 以前、2010年代の日本語圏のフィクションのトーンを「黄昏」と「殺伐」であると書いた。

amberfeb.hatenablog.com

 この『凪のあすから』もまた、そうした「黄昏」どきをめぐる想像力を喚起する作品であったのは間違いない。世界の終わりが突きつけられてなお、継続してゆく日常とそこで生まれる喜びを寿いで終わるこの作品のトーンは、とてもあたたかなものだ。暮れゆく海に響く潮騒。それは時に苦しみを産みもするのだが、しかしやはりその豊かさに耳を澄ませよと、『凪のあすから』は語っているのだ。

 

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