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それでも映画はある——『フェイブルマンズ』感想

The Fabelmans

 『フェイブルマンズ』をみました。こいつはすごいですよ。以下、感想。

  サミュエル・フェイブルマン少年は、両親に連れられて鑑賞した映画『地上最大のショウ』をきっかけに、スクリーンの魅力に引き込まれていく。母から買い与えられたカメラで家族や友人たちを俳優にしてフィルムに収めていくフェイブルマン少年。自身の撮った自主制作映画が両親や友人に称賛され、充実した日々を送っていたが、知らぬ間に父と母のあいだには不穏な空気が漂うようになり、そしてカメラが不意にそれをとらえてしまう。

 スティーブン・スピルバーグ監督による自伝的作品。両親の離婚が自身のあり方に大きく影響を与えた一種のトラウマであることをかなり直截に語っていて、この映画を撮ることはある意味でセラピー療法であったのかもと推測したくなる。映画制作は全体を統御するモチーフになってはいるけれど、映画、そしてそれをつくることを無邪気に肯定し、そのすばらしさをうたい上げるような映画ではまったくない。映画をつくることの楽しさとすばらしさ、しかしそれによってどうにもならない身辺のままならなさ。

 母が父の同僚と不倫関係にあり、またエンジニア気質の父と、ピアニストであり芸術家肌の母とに引き裂かれる家族関係。その修復のための行動もよい結果を生まない。フェイブルマン少年が撮ったホームムービーの素材は、意図せずして母の不貞をあらわにしてしまう。父の転職にともなって引っ越した先のカリフォルニアでは、ユダヤ系という出自によって同級生のジョックスたちからいやがらせをうける。

 このように挿話を取り出すと鬱々とした映画に感じられるかもしれないし、実際いじめのシーンや両親の不和などは強烈な圧力があるが、しかしそれでも鬱に振り切れないバランス感覚はお見事。ジャンプカットによる時間・空間の跳躍がしばしば爽快に決まっているし、父を演じるポール・ダノ、母を演じるミシェル・ウィリアムズが、全体としてはそれぞれ家族を愛する誠実な善人の雰囲気をまとっていることが、この映画を救っているという気もする。

 先のホームムービーの挿話に象徴されるように、この映画のなかでは映画をつくることは両義的な営為として表象されている。戦争映画の指揮官に配役された少年が、役に入り込むあまりカメラが止まっても涙を止めることができず歩いていく背中を映す場面は、まさに映画をつくるという行為のもつポジティブなエネルギーが発露している。一方で、高校卒業のプロムで流された記念映画をみたジョックスの少年が自分の空疎さを晒されたと感じて泣き出してしまう場面は、意識・無意識にかかわらず発露する可能性のある加害性を写し取ったものだろう。このジョックスの少年の煩悶は、たとえば『桐島、部活やめるってよ』における東出昌大演じる野球部の少年のそれを想起したりもした。

 長年にわたって映画をつくり続けた作家が、その経験に居直ることなくしかし確かに体重を乗せたメッセージを放つこの映画は、ままならぬ現実のなかで、それでも映画は確かにある、とわたくしたちに教える。そのことに奇妙に救われた心持ちになったのだった。

 

 この映画を経由すれば、『レディ・プレイヤー1』のあまりに陳腐なラストを許せるかも…ともおもったりしましたが、やっぱあれはだめだと思うわ。それはともかくとして、スティーブン・スピルバーグにとってはあれが切実で誠実な「虚構」に対する唯一のアンサーなのだろうというのは感じて、作品のラストとしては興ざめだけど、『フェイブルマンズ』を経由して納得はしたぜ、という気持ちです。