『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』、みました。毎週律義にアニメを追っかけたの、ほんと久しぶりだった気がします。以下、感想。
人が宇宙に進出して半世紀以上が経った、宇宙世紀0085年。先の一年戦争で、スペースコロニーを首都とするジオン公国は宇宙移民の独立を掲げて地球連邦に勝利したが、宇宙にすむ人たちはいまだ混乱と貧困のなかにいるようだった。スペースコロニーで生まれ育った少女、アマテ・ユズリハ(マチュ)は、コロニー内での日常に漠然とした鬱屈感を抱えていたが、偶然にも非合法のモビルスーツ戦闘、クランバトルを行う集団と接触し、さらに偶然が重なり、ジオン公国が極秘裏に開発した機体、GQuuuuuuX(ジークアクス)に乗り込むことになる。一年戦争時に行方不明になった伝説のモビルスーツ、赤いガンダムを駆る謎めいた少年シュウジ、マチュがクランバトルに巻き込まれるきっかけをつくった難民の少女ニャアンとともに、マチュは大いなる運命に巻き込まれていく。
『機動戦士ガンダム』シリーズの最新作は、シリーズを世に送り出し続けてきたサンライズと、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』のスタジオカラーによる共同制作で、「一年戦争でジオン公国が勝利した世界」という架空戦記的な舞台を用意した、シリーズのなかでも屈指の変化球。そのことを伏せた状態で劇場で先行上映された『Beginning』では、いきなり赤い彗星シャア・アズナブルがガンダムを奪取するさまをスクリーンに映し出し我々の度肝を抜いたが、テレビシリーズにおいても毎週のように驚くべき展開を用意しSNSを大いに沸かせた。その過剰ともいえる大騒ぎぶりには鼻白むときもないではなかったが…。この盛り上がりがどこまで制作陣に意図されたものかは推し量るしかないが、近年の深夜アニメでは屈指の求心力を持ったアニメであったことに疑いはない。
監督に鶴巻和哉、脚本に榎戸洋司という、『フリクリ』・『トップをねらえ2!』の座組で、鶴巻和哉にとっては1クールのテレビシリーズを手掛けるのは初。後半に明かされる、ララァ・スンを中心としたこの奇妙な偽史的世界の成り立ちは、榎戸がかつてかかわった『少女革命ウテナ』の姫宮アンシーと王子様の構図を想起させるものがあり、榎戸自身の重力圏に長い『ガンダム』シリーズの歴史を巻き込んでしまう剛腕ぶりにおののく。
西尾維新作品の挿絵などで知られる竹によるキャラクターデザインは記号的にキュートで、それがこの作品の大きな魅力の一つになっている。主役のマチュの幼さのなかに強い意志を感じさせる佇まいはもとより、『機動戦士ガンダム』からの登場であるシャリア・ブルを色気と謎をまとった中年男性にリファインしてみせたのは見事だった。キャラクターとしても、決定的な過去を抱えて『機動戦士ガンダム』との連続性を担保するだけでなく、マチュと師弟関係めいたものになり、マチュたち少年少女のストーリーラインと、ジオン公国と世界の未来を占う大きな構図とを接続する狂言回し的な役割も担う八面六臂の活躍ぶりで、『機動戦士ガンダム』で1エピソードのみで退場してしまった借りを40年越しに返してみせたといっていいのではないでしょうか。
お話はマチュたちがクランバトルを戦う前半と、シュウジが行方不明になりマチュとニャアンが別れそれぞれジオンの庇護下に置かれ世界の秘密に迫る後半とに分けられると思うのだが、エピソードのあいだで大胆に時間を経過させていると思しき描写が幾度かみられ、展開はスピーディーで余白が多く、その余白については視聴者の想像にゆだねることで、全体を1クールの枠に収めているという印象を受けた。
クランバトルやマチュとニャアンの関係性の深化など、もっと尺をのんびり使って具体的なエピソードを積み重ねてほしかったという気もするが、劇場で上映してもまったく遜色ない密度の画面があたりまえのように毎週流れているのをみると、この画面のクオリティを維持できるのは1クールが限界だったのかなとも思う。その意味で、『機動戦士ガンダム』をはじめとする先行する作品の記憶を縦横無尽に引用することで、視聴者を共犯関係に巻き込んで余白を埋める想像力を刺激するようなストーリーテリングが要請されたのかもしれない。
一年戦争のイフという舞台設定は、そうした過去の作品の記憶を引用するために用意されたものではなく、この作品世界の根幹にかかわるものだったことが、終盤で明かされる。マチュたちの生きるこの「シャアがガンダムを奪取した」世界は、別世界において、戦闘のなかでシャアをガンダムに討たれて喪ったララァ・スンが、シャアが生き延びる可能性を無数に夢みるなかでたどり着いたものだった。
この設定によって、この作品の架空戦記的な設定が、単にこれまで積み重ねられてきた歴史を弄んで悦に入る、ある種の非倫理的な戯れではなく、愛する人が救済される「ありえたかもしれない世界」を希求する切実な祈りへと転化する。この「ありえたかもしれない」世界を擁護し望むことこそ、マチュたちが傷ついてなおそれを手にしたいと願う、自由の真価なのだ。わたくしたちがもちうる、よりましな世界を求め、あがく自由、その可能性を鍛え、ポジティブな内実を与えてみせたこの『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』を、わたくしは強く肯定したい。
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少女を主人公にしたガンダムシリーズの近作2作が、どちらも『少女革命ウテナ』を明示的・暗示的な参照項としていることに、奇妙な縁を感じます。
3DCGで描写されるモビルスーツ戦は明らかにポスト『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』だと思うのだが、とりわけコロニーから宇宙の無重力空間に出るタイミングのえもいわれぬ浮遊感は、『GQuuuuuuX』のモビルスーツ描写の白眉だったと思います。
ギレンとか、明らかに安彦良和のデザインのキャラクターと、竹の『GQuuuuuuX』が並ぶと、味…。
最後の最後で尺の割をくってしまっている最大の被害者がニャアンという気がして、虐殺のトリガーを引いてしまったことが、なんらかのかたちで贖われるような挿話がBlu-rayとかで、追加されると、いいね…。