『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』を再見したので感想。改めて、傑作ですね。以下で『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』の内容にも触れています。
宇宙世紀0079年。ふたたび宇宙にあがったホワイトベース隊の面々は、最新鋭のモビルスーツ、ガンダムとそのパイロット、アムロ・レイを中心に、攻め寄せるジオン軍を退けていく。数々の戦いを乗り越えてきたホワイトベース隊。その中心にいるアムロは、宇宙に適応し進化した人類、「ニュータイプ」と目されるようになっていく。そんななか、ジオン軍のシャア・アズナブルに従う少女であり、ニュータイプの素質をもつとされるララァ・スンとの邂逅が、アムロの運命を大きく変える。
劇場版『機動戦士ガンダム』の第3作目にして完結編。『哀・戦士編』からおよそ8か月後、1982年3月に公開されたこの『めぐりあい宇宙編』は、TVシリーズ制作途中に体調悪化のため離脱した安彦良和が存分に腕を振るい、完結編にふさわしいスケールで宇宙戦争の決着、そして人類の革新をめぐる物語が展開される。
冒頭、宇宙にあがったホワイトベース隊と、以前シャアの部下だったドレン率いるキャメル・パトロール艦隊との戦闘からから相当気合が入っており、その後、テキサスコロニーでの小競り合い、サイド6付近でのコンスコン隊との戦闘、ソロモン攻略戦、そして最終決戦となるア・バオア・クーでの攻防と、『哀・戦士編』以上の見せ場の連続。
キャメル・パトロール艦隊を一蹴し、コンスコン麾下のリック・ドムをあっという間にせん滅するあたりのシークエンスは、これまでの戦闘とは一線を画し、ここにいたってアムロ・レイのパイロットとしての技量ははるか高みに達していることを雄弁に語る。このあたりの宇宙戦闘のシークエンスの緊張感と爽快感は、いまだ古びていないと感じられる。
また、佳境ともいえるソロモン攻略戦、そしてア・バオア・クーでの最終決戦では、地球連邦軍とジオン軍の総力を結集した艦隊戦が描かれ、無数の砲火が飛び交い、名もなき兵士たちが絶え間なく命を散らしてゆく、壮大なスケールの戦闘が展開される。巨大な人型兵器が一撃必殺のビームを打ち合うなか、宇宙要塞にとりついた兵士たちは必死で白兵戦を行う、様々なバリエーションのぶつかり合いがザッピングされ、巨大な暴力の嵐が吹き荒れるような戦闘描写は、ロボットアニメにおいてほとんど絶後といっていいのでは。同様のすさまじさを感じさせるのは、記憶の限りでは『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』とか、『伝説巨神イデオン 発動篇』くらいではなかろうか。このあたりの苛烈さは、現在と比べてアジア・太平洋戦争の記憶が生々しい時期のリアリティ感覚が反映されているような気もする。
そうした苛烈な戦闘描写とパラレルで、前々から言及されてきた、進化した人類としてのニュータイプというモチーフが、この『めぐりあい宇宙編』で一気に前景化する。このことは作劇上かなり大きな効果をあげていて、具体的にいえば、ドラマの決着を戦争における勝利ではない次元に転移させるための梃子として大きな役割を果たし、そのことが、『機動戦士ガンダム』という作品の奥行きを決定的に深めた。架空の歴史のなかでの戦争を描いてきたこの物語は、悪の帝国が打倒されて落着する勧善懲悪の物語ではなく、まだ不定形で茫漠とした希望をめぐる探求のドラマとして私たちに手渡されることになる。
ニュータイプの力は、この作品の結部においては、邪悪な敵を打倒するためではなく、絶望の宇宙でなんとか生き延びるためのささやかな力として発露する。人類の革新を託された力の使い方としてはあまりにささやかにも思えるが、しかし同時に、それは人の生存という究極の目的に奉仕しているともいえる。このようなかたちで、希望はかすかに示されるにとどまるが、それこそが40年以上の時を経ていまだ「ガンダム」にまつわる新作がつくられ続ける理由なのかもしれない。『機動戦士ガンダム』は、その結着において、人類の歩むべき道はなにか、あるべき姿はなにか、という未完結の問いをわたしたちに投げ渡したがゆえに、いまだ色あせることのない傑作なのだ。
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初代三部作が総力戦の時代のリアリティ感覚の反映だとしたら、現代の傑作、『閃光のハサウェイ』はテロリズムの時代のリアリティを見事に写し取っているという気がして、その意味で、小説の刊行から時間が経った現在だからこそ、アニメとしてのリアリティを得たなという感じがしますね。
『めぐりあい宇宙編』、あまりにも構成がきちっとはまっているように思えて、これはシャリア・ブル大尉、はいりこむ余地、ないやん..。となった。