米澤穂信の、特に初期の作品においては、幾人かの主要な登場人物に共通するエートスがみられる。この短いテクストではそれを「撤退の美学」と名指し、それがいかに彫琢されてきたかを跡付けようと試みる。
「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に、だ」*1
米澤のデビュー作、『氷菓』(2001年)において、主人公たる折木奉太郎のモットーとして表明される言明。ここに「撤退の美学」が端的にあらわれている。物事に過度に情熱を燃やしたりしない、「省エネ」主義。のちに彼がこうした心情を抱くにいたった経緯が明かされるのだが*2、ここではそれほど強固な信念として語られるわけでもなく、姉からの手紙によって部活動への参加を決める程度には、ゆるい行動指針だといえる。
折木はこうした自身の在り方を、エネルギーを活発に消費する「薔薇色」の日々との対比で「灰色」と自嘲しているようではあるが、『氷菓』はむしろその「薔薇色」のなかで個人の意思が抑圧される悲劇の過去が見出されることで、その「灰色」の在り方が相対的に擁護されているともいいうる。一方で折木自身は部活動をともにする少女、千反田えるによって、その過去をめぐる探索に巻き込まれることになり、「撤退の美学」は完遂されえない。「撤退の美学」は反・主体的な態度であるが、探偵小説のテクストのなかで主人公を演じることは、否応なしに主体的な態度を要請するからだ。そして『氷菓』にはじまる〈古典部〉シリーズは、折木自身が自身の能力の範囲で他者にかかわっていく仕方を「遠まわり」しながら学んでゆく方向へと進行する。
一方、2004年に刊行された『春期限定いちごタルト事件』においては、「撤退の美学」はより自覚的・徹底的な信条として引き受けられることになる。端的に言えば、小鳩常悟朗と小佐内ゆきの主人公コンビが名乗る「小市民」とは、すなわち「撤退の美学」の体現者の謂いなのである。高校進学という環境変化を好機とし、小鳩は「高校デビュー」を試みる。
日々の平穏と安定のため、ぼくと小佐内さんは断固として小市民なのだ。*3
周囲の過度な注目を浴びることは避け、平々凡々な人間として日々を過ごす。これは、中学時代に自身の能力を思うさま振るったことでおこったハレーションへの反省から選び取られた態度であることが明示されており、その点においても『氷菓』(ここでは作品世界の時系列ではなく、刊行時点)における折木の態度よりも明確に強いバックボーンをもつ。米澤穂信の初期の作品において、撤退の美学は共有されたトーンといっていい。
それでは、なぜこの「撤退の美学」が要請されたのか。米澤自身は、かつて笠井潔と行った対談の中で、デビュー作の『氷菓』で書きたかったことは「思春期の全能感」だったと述べている*4。この「思春期の全能感」に対する身の処し方の一類型として、「撤退の美学」は要請されたのではないか。
米澤のテクストのなかで、この「思春期の全能感」に素朴に身をゆだねるものは、テクスト上で軽侮の対象となる。
「思春期の全能感」に酔い、自身は物事のありようを正しくとらえており、自身の介入によって物事を適切な仕方で解決することができると無意識的に信じているものたち。たとえば 『愚者のエンドロール』における羽場ら「脚本家」たち、あるいは『クドリャフカの順番』の谷惟之、そして『秋期限定栗きんとん事件』において小佐内の「彼氏」としての役割を与えられる瓜野高彦。
こうしたものたちに対して米澤は基本的には酷薄で、彼ら・彼女らの目論見通りに物事が進行することは基本的にない。「思春期の全能感」に酔うものは道化役以上のものになりえない。また、小鳩・小佐内の小市民コンビの中学時代の失敗もまた、「思春期の全能感」による蹉跌とみなすこともできよう。
こうした「思春期の全能感」に距離をとるために選び取られる戦略が「撤退の美学」なのであり、〈古典部〉シリーズにおいては、折木のみならずその友人、福部里志もまた、そのおおむね積極的といっていい他者へのコミットメントと裏腹に、「撤退の美学」を引き受けることで「思春期の全能感」の罠を回避しようと試みているように思える。だから福部は「データベース」を自認して結論を出すことを忌避し、さらに自身に好意をよせる少女に向き合うことも避けようとする。そして、彼が「思春期の全能感」に酔うもの────端的には谷惟之────に向ける視線は極めて冷たい。
しかし、前述したとおり、〈古典部〉シリーズはこの「撤退の美学」が次第に後退し、折木自身がその重力圏から抜け出ていく物語を語ることになる。
『いまさら翼といわれても』における以下の表明は、「思春期の全能感」に酔うのではなく、かといって「撤退の美学」に寄りかかるのでもない、その両者から適切な距離をとった場所に折木が到達していることを示している。
「全部はわからない。でも、少しだけなら、わかる気がする」
すべて自分の思うままになる、自分こそが主人公なのだという「思春期の全能感」は幼稚なものである。かといって、自分には何もできない、ただの凡庸な傍観者に過ぎないという不全感もまた、全能感の裏返しであり幼稚なものなのだ。物事に、自身の能力の範囲で、自身の能力の限界を引き受けながらコミットメントすること。それは思春期をとうに終えた私たちにも可能な、ある種の倫理だろうと思う。
かつて、米澤が〈小市民〉シリーズを決着させられないのは、すでに「思春期の全能感」という問題系が米澤にとって切実な主題系でなくなったため、その「思春期の全能感」のネガたる「撤退の美学」の体現者、小市民に相応しい結末を用意できなくなったからではないか、と書いた。だから、今回の『冬期限定ボンボンショコラ事件』の発表は大きな驚きであった。
近年の米澤の仕事を顧みると、「撤退の美学」から切断されているようにも思える。直木賞を受賞し、米澤の作家としての名声をさらに高めた『黒牢城』は、包囲下の籠城戦、すなわち「撤退不可能」な場所が舞台であったし、それ以前から、たとえば『ボトルネック』にしても『リカーシブル』にしても、状況的に「撤退」など許されない土壇場に語り手を置くミステリを継続的に執筆してもいる。
これらのことから、きたる『冬期限定ボンボンショコラ事件』においては、小市民たちが「撤退の美学」をいかに清算するか/あるいはしないか、ということに賭け金がおかれることになるのではないか。彼と彼女には、折木がそうしたような、ソフトランディングともいえる和解は似合わない。小市民たちに相応しいかたちで「撤退の美学」に決着がつけられることを、強く期待したい。