『ボヘミアン・ラプソディ』をみました。抗いがたい快がありました。以下感想。
仮に映画をはかる尺度に「正しさ」というものがあるとするならば、『ボヘミアン・ラプソディ』は極めて正しい映画であった。ここでいう正しさは、政治的な正しさでは無論ない。この『ボヘミアン・ラプソディ』には、社会の周縁に置かれた人々・性的マイノリティの姿が写し取られている。そうしたことをもって、そうした弱い者へのまなざしをこの映画に読み取ることは可能ではあるだろう。
しかし、そうした読みを許すことと、そうした主題に映画が奉仕することとはまったく異なるといわねばならない。この映画はそうした正しさにまったく奉仕しない。この映画が奉仕するのは、クイーンという途轍もない商業的成功を得たバンドの、この社会に生きる限りで避けがたく我々の身体に侵入してくる楽曲、それのもたらす快、それである。
この快に奉仕するとはすなわち、身体的な快に我々が没入することを妨げることのないよう、あらゆる要素が構築されているということに他ならない。バンド結成、商業的成功、メンバーの不和、その解消による大団円というふうに要素を抜き出すと、極めてウェルメイドなバンドの物語のように感ぜられるし、実際そうなのだと思う。たとえば『ジャージー・ボーイズ』であるとか『ストレイト・アウタ・コンプトン』は、そうしたウェルメイドな物語のなかに、確かにユニークな肉があったように思う。
しかし『ボヘミアン・ラプソディ』には、物語のなかにこの映画でしかありえないものを添えるということをしなかった。これは邪推にすぎないが、監督を中途で降板したブライアン・シンガーの意思が貫徹していたのであれば、フレディ・マーキュリーという固有のパーソナリティのその固有さを、もっと鋭く剔出しえたのでは、とも思うのだが、そうしたものへのこだわりをあまり感じさせないがゆえに、この映画は圧倒的に「正しい」映画になっているという気もする。快は正しい。人はそれに抗えない。
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