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涙の川は絶えず流れる――『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』感想

【チラシ付き、映画パンフレット】 劇場版 響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ

 『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』をみました。以下、感想。

  水。流れる水。それはどうやら川であるとわかる。寒々しい空気。川には橋が架かっている。橋の上に立つ若い女と男。告げられる好意。驚きの声。新たな物語の始まり。

 『響け!ユーフォニアム』シリーズの最新作は、テレビシリーズの直後、黄前久美子たちが2年生になり、新たな部員たちとともに吹奏楽部の活動に打ち込むさまを描く。『リズと青い鳥』で切り取られた出来事と、時間軸的には重なり、『リズと青い鳥』の出来事を想起させる諸々の場面は散りばめられ、クライマックスではその記憶を強烈に引き出されるのだが、それでもこの『誓いのフィナーレ』はあくまでテレビシリーズの続編、という感触が(キャラクターデザインから一目瞭然ではあるのだが)、強い。

 新入生の入部、おきまりのイベント、残酷なオーディション、そして全てを賭けて臨む、大会の舞台。それらは黄前久美子にとっては昨年経験した出来事であり、またテレビシリーズをすでに知る我々にとって、よく知る光景・出来事ではある。学校という空間は、つねにその成員を入れ替えつつ、しかし毎年変わらぬ催事を反復し続けてきたのだし、そしておそらくこれからもそうである。

 そのような決まりきった反復などは、たかだかこの百年ほどのあいだに形作られてきたものでしかないのだが、それはかつてもそうであり、また今後もそうであろう。そんな反復ごときは無論のこと歴史的なものにすぎないのだが、その反復のなかには、どこか歴史性を超越した普遍性の徴が宿っている。そうした学校空間を中心に編成される、変わりつつも同じように繰り返される時間。

 川の流れもまた、過去においてもそのように流れていたのであり、そして今後も同様に流れてゆくものでもある。無論それがまとう歴史性の質は学校空間とはまったく異なるのだが、冒頭で映し出される宇治川の流れのなかに、そうした反復を引き受け、この映画は語られるのだ、という予示を読み取ってもよいだろう。

 しかし、いうまでもなく反復のなかには避けがたく差異が畳み込まれていて、その差異こそがこの物語の中で問いを投げかけ、それに対峙せよと要求する。その問いを発する人物こそが新たに吹奏楽部に加わった久石奏であり、彼女の問いは、すでに語り終えられた、一年前の北宇治高校吹奏楽部の物語にすら、新たな可能性をもちこむである。幸福な響きをまとって語り終えられた物語の、現実には起こることもなく、故にそのように語られることのなかった、しかしありえたかもしれない可能性を。

 かつて、北宇治高校吹奏楽部が自ら選び取る(というように引き受けざるを得なくなる)という仕方で、全国大会を目指す、という目標を定めた。ゆえに実力のあるものが出場メンバーとなり、実力のあるものがソロパートを担うことになる。メンバー選考にあたって、そこに「最後の年だから」「三年間がんばったから」のような、実力以外のファクターが介在することなどありえない。そして、北宇治高校吹奏楽部は、その基準を貫徹させ、全国大会出場を勝ち取ったのだった。

 しかし、もし無残に敗退していたら?「実力あるもの」が選ばれる、という基準は正当性を失い、どうせ敗退するのだから、「がんばった人」「これが最後の大会になる人」が出たほうがよかったのではないか?という想像力が容易に侵入するだろう。そして、「がんばった人」を押しのけた「実力あるもの」は陰に陽に批判にさらされることになる。

 久石奏はそうした実力主義が正当性を失うという事態を生きて、いま・ここに至っているのであり、だから、彼女はこう問うのである。結果によってしか正当性を保証されない実力主義のゲームに、すべてを賭けてよいのか、と。あなたたちは、たまたま、結果によって「過程」――実力という基準をもちこみ貫徹させること――が正当化され、救済される物語を生きたにすぎないのではないか。それは、結果によって「過程」の正当性が毀損され、救済されることなく打ち捨てられる物語の可能性を内在し、そしてその可能性はしばしば現実化する。そのことに耐えられるのか、と。

 この問いのもつ一面の正しさは、まさしく久石奏の来歴によって証明されているのであり、だから黄前久美子は、この問いに真正面から答えるというよりも、その問いをずらすことで、こうした問いがまさに問われるゲームの規則から、久石奏を連れ出したように思われる。結果によって正当化されるか否かにかかわらず、まさに彼女たちがいま・ここで生きている時間としての「過程」を肯定すること。

 この『誓いのフィナーレ』では、黄前久美子が、明確な将来を見据えている高坂麗奈と比べて――あるいは物理的なリミットが差し迫っていたがゆえに、その進路を定めることを強いられた『リズと青い鳥』の二人に比して――未だ具体的な将来を描けずにいる、ということが強調される。そして、この『誓いのフィナーレ』は、黄前久美子がそうした将来の具体像を手にする物語では――それはウェルメイドな成長譚の筋立てとして大いにありうるものだと思うのだが――決してない。ただ彼女は将来の具体像を定めることについてはいったん棚上げにし、あるいは幼馴染の恋人とも距離を置くことで、いま・こことして生きられる「過程」のただなかにあることを選び取るのである。彼女が久石奏を前にしておもわずそうしたように、とりあえずおもむろに虚空に手を伸ばすような仕方で世界と対峙してみせることなのだと思う。

 そしてまた、その「過程」を救済するものが、決して結果だけではないことを、この『誓いのフィナーレ』で大きな存在感を発揮した吉川優子が教える。その「過程」のなかへと賭けたもの、その賭け金の切実さこそが、期待外れの結果を単なる失敗として終わらせず、その期待外れの結果においてもなお毀損されることのない輝きを導くのであり、だからこそ、崩れ落ちおそらく涙せずにはいられなかった悔しさを経てなお、仲間と共に歩んできた道をすべて肯定してみせることができるのである。

 こうして、昨年の物語を十全には反復することなく、この物語が終えようとするまさにその時、久石奏は涙を流す。こらえきれずに流れ出してしまう、悔しさの涙を。それは、黄前久美子の物語の始まりを告げた、あの高坂麗奈の涙とまったく同型なのであり、この映画の結部において、まさしくかつて語られた物語と似た、しかしまったく違う物語が始まったのだと我々は知るのだ。

 『響け!ユーフォニアム』のテレビシリーズが、涙に始まり、涙に終わったことを我々は知っている。だとすれば、この『誓いのフィナーレ』の冒頭で映し出された宇治川のなかに、涙の暗喩を読み取ってもよいだろう。涙は瞳からいずこかへ流れてゆくのだし、川もまた、ここから何処かへと流れてゆく。悠久の時のなかでここにあり続けたその川は、そこかしこで降りゆく雨を集めて流れてゆく。その雨の一滴が涙であってなんの差支えがあるだろうか。

 『誓いのフィナーレ』には様々な涙が散りばめられている。うまく他人と打ち解けることのできない彼女が流した涙。あるいは、病によって中途で道をあきらめざるを得なかった彼女が流したかもしれない涙。先代の偉業を、ついに乗り越えることのできなかった彼女たちが流した涙。あのタイトの極致にあった『リズと青い鳥』と比べるならば、そうした涙を拾い集めることで、映画全体の印象は散漫――無論これはネガティブな含意はなく、比べる対象の問題でもあるのだが――なものとなったかもしれない。しかし、それらの涙は必ず集められなければならなかった。それこそが、まさしくいま・ここで生きられ賭けられたものの、一つの証明なのだから。そうして、涙の川は絶えず流れる。そこに無数のきらめきを宿し、時にそのディティールを我々に垣間見せながら。

 

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