『窓ぎわのトットちゃん』をみました。世評通り、よい映画ですわね…。以下、感想。
1940年、東京。教室での落ち着かない様子から教師もさじをなげ、転校を嘆願された小学1年生の少女、トットちゃん。母親に連れられて自由が丘のトモエ学園を訪れた彼女は、電車が教室として使われていたり、あふれでる自分の話を飽かずに聞いてくれる校長先生におおいに心躍らせる。そこで出会う人、おこる出来事、流れる時間、それを楽しむトットちゃんだったが、しかし国家は破滅的な戦争へと突き進んでいき、トモエ学園という場所も変容せざるを得なくなっていく。
黒柳徹子による自伝的エッセイのアニメ映画化。アニメーション制作はシンエイ動画、監督は『ドラえもん』の劇場作品を手掛けてきた八鍬新之介。金子志津枝によるあたたかみのあるキャラクターデザインは児童書の挿絵のような雰囲気で、決して今風のタッチではないが、それはこの作品を長く残るものにしようという意志の象徴のようにも感じられる。
教室でも興味の向くまま物事に反応し、授業そっちのけで何かに没頭してしまうトットちゃんは、いまの目線で眺めればADHD・LD傾向のある児童ではないかという気がするが、その彼女のパーソナリティを矯正するのでなく受容し、時に手を差し伸べるトモエ学園の校風はいかにも現代の政治的正しさとマッチしているという感じがする。その受容の描き方もわざとらしくなくさらっと描いているのがスマート。
校長の小林宗作は、予告でも使われた「君はほんとうはいい子なんだよ」なんかは相当わざとらしい感じがしたのだが、作中のふるまいの、お節介焼きではない仕方で子どもと接することができるバランス感覚はかなり巧みであったと思う。財布をくみ取り式の便所に落としたトットちゃんが糞尿まみれで悪戦苦闘するのを叱責するでもサポートするでもなく、「元に戻しとけよ」とだけ指示して一旦ほったらかしにする場面にそれが特にあらわれていたような気がする。作中ではつまびらかにされないが、近所の悪ガキにはやし立てられるように、小林の教育方針はかならずしもすべての在学生の保護者の理解を得られてはいないだろうし、黒柳一家の進歩的な空気と幸福にマッチしたという偶然の産物がこの映画の原作なのだろうと思う。だからこそ、児童たち自身によるトモエ学園の擁護に小林は肩を震わせたのだろうし、そうしたかすかな弱さが小林という人間に陰影を与えてもいる。
さて、小林がつくったトモエ学園は、宮崎駿の言葉を借りるなら「一瞬のユートピア」の具現のようなものだろう。
たとえば、〈トトロ〉みたいな世界は一瞬のユートピアだと思って作っているんです。小さな子供たちにとっては、まわりのことはわからないから、つまり、父親がどういう経済状態にあるかとか、どういう精神状態にいるかとか、日本全体の政治動向とか、経済状況とか、そういうことがわからないから、自分の一日のなかの一瞬のなかでも充足感を味わうことができる。そういうふうに作ったのが〈トトロ〉だと思っているんです。時々誤解されて、あの時代はとてもいい時代だったんじゃないかという若い人が現れたりして、少し日本の歴史を勉強してほしいと思うことがあるんです。しかし、そういう一瞬のユートピアのようなものは、昭和20年代の食糧難の時代にもあったと思うんです。*1
映画『窓ぎわのトットちゃん』はそのユートピアが精神的にも物質的にも崩壊するさまを描いている。学園の講堂を彩った子どもたちの絵は、いつしか軍隊や兵器を描いたものへと変わり、子どもの歌声すら「よき市民」による𠮟責の対象となる。そうした社会の変容と、友人の死というモーメントが重ねあわされ、ユートピアと、そこで営まれた幼年期の終わりがすなわちこの映画の到着点になり、結部では少女が小林の言葉を赤ん坊になげかけることで、まさに少女がすでにあのときの少女ではないことが明示される。長く読み継がれてきたベストセラーが、このようなかたちで普遍的な映画になったことは、喜ばしいことに違いないでしょう。
関連
Twitter上の感想でしばしば『この世界の片隅に』との連想が言及されていますが、『この世界の片隅に』と比べて『窓ぎわのトットちゃん』は結局東京のエスタブリッシュメントのはなしじゃんねえ~という僻みがわいてくるというのはあるわよね。黒柳家の父と母、(おそらく実際そうだったのだろうけど)マジで「正しい」人間なのだよな。(遠藤周作的なキリスト教徒に対する)三浦綾子的なキリスト教徒の正しさっていいうか…。それが悪いとかではないのだけれど。
あとアーティスティックなシーンがインサートされるのは『わたしの好きな歌』リスペクトを感じますわね。