- 作者: 大内裕和,斎藤貴男,佐藤学,佐々木賢,中西新太郎,児美川孝一郎,赤田圭亮,岡崎勝,青砥恭
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2014/03/27
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先日、『現代思想』の2014年4月号を読みました。「ブラック化する教育」と題された特集号で、暗い気持ちにさせられる論考が目白押しだったんですが、一番心に残ったのは山口恵子「「東京」に出ざるをえない若者たち-地方の若者にとっての地元という空間」。それについて考えたことを書き留めとこうと思います。スタドラと『氷菓』と絡めながら。
「東京」に出ざるをえない若者たちを救う「地元」
山口論文で扱われているのは、地元(青森)に仕事がないため、生活の糧を得るため、という必要に迫られて東京に出る若者たちの姿。この時点で、僕みたいに親の脛を齧って大学でモラトリアムを謳歌しているプー太郎のことじゃないので、ああ、僕は山口さんの言うような「東京に出ざるを得ない若者じゃないな」と思ったりしたんですが、それは置いといて。
東京に出た若者たちは、派遣社員、契約社員として使い捨てられる。無理な働きかたをして体調を損ねたり、はるか九州への異動を命じられたりするなどして、東京、もしくはその近郊で働くことが困難になってくる。そこで彼らは地元に戻らざるを得なくなる。地元に戻った若者たちは、親であるとか地元の友人たちとのつながりによって、なんとか生きているというような顛末が描かれていた(ように思う)。
そこで提示される地元の像というのが、どうにも自分にとってはしっくりこないものがあって。確かに、地元に帰れば仕事はないかもしれないにせよ家があって、生きていくことはできると思うんですよ。でも、それだけではどうにもならない息苦しさ、呪いともいえるようなしがらみも同時にあるような気がして。その感覚こそ、自分を東京へと駆り立てたわけで、自分も(山口さんの述べるのとは全く違う文脈において)「東京に出ざるを得ない若者」なんじゃねーかと思うわけですよ。「地元」の呪いに打ち勝つには、東京に出るしかないんじゃないか。そう思ったからこそ、東京に出て、地元には帰らないという選択を自分はしたわけです。
そんな自己認識を踏まえたうえで、自分の好きなアニメについて思いを巡らしていたんですけど、その中にもやっぱり「地元」とどう向き合うのかというモチーフがあるような気がして。それについて以下で適当に語ろうと思います。
「地元」の呪いの暗喩としての「サイバディの封印」―『STAR DRIVER 輝きのタクト』
「地元」の呪いと向き合う物語としてまず連想したのが『STAR DRIVER 輝きのタクト』。主人公であるタクトは、「地元」ともその呪いとも無縁なように思える。しかしヒロンであるアゲマキ・ワコの物語として本編を眺めるならば、それは「地元の呪いから解き放たれる物語」として読めるはずだ。ワコにとっての「地元」の呪いとは、生まれながらにして課せられた巫女としての役割に他ならない。
ワコの背負う呪いの強烈さは、普通の人間の背負うそれとはおおよそ比較にならない。なんせサイバディの封印を解かない限り島の外に出ることすらかなわないし、もし封印が解けたとしたら世界が滅びてしまうのだから。
とはいっても、サイバディの封印はある意味で現実において人が背負う呪いのそれとの類似性はあるんじゃなかろうか。役割(長男であるとか)を背負わされたものが「地元」から離れることの困難さ。そこから離れられたとしても、離れたことのもたらす帰結は、誰かにとっては破滅的でもあるだろう。過疎化、それに伴うコミュニティの機能不全、家の断絶...。それは世界が滅びることとは比較不可能だが、それが「地元」で生きてきた人にとっての意味は、軽く見ることはできない。
しかし『STAR DRIVER 輝きのタクト』は、それでも「地元」を出る物語である。「地元」の呪いを打ち破るのは、外部から来たヒーロー、タクト。彼の助けがあってこそ、ワコは、そしてスガタや他の巫女たちも、「地元」の呪いから真に自由になることが可能になったのである。なぜ、タクトは呪いを打ち破ることができたのか。
スタドラにおいて、呪いはザメクという最強のサイバディに凝縮されている。現実で呪いは、様々な関係性の束と、それが生み出すしがらみという、目には見えないし具体的でもない。というか結局のところ自分自身が作り出すものであるとさえいえるかもしれない「呪い」。それをザメクという巨大ロボットに具象化させたからこそ、「最強の敵を打ち破る」ロボットアニメ的なクライマックスと「ワコが呪いから解放される」シナリオ上のクライマックスとが見事に重なり合った。
それこそがスタドラ最終話のとんでもない魅力の一面だと僕は思うわけですよ。
「最高に美しいとは思いません」―『氷菓』の「地元」観
スタドラはロボットアニメというフォーマットを十二分に生かして「地元」の呪いを打破した。とはいえ我々の現実にロボットもいないし、呪いが具体化したような最強の敵もいない。もちろんそれを倒してくれるヒーローなんているわけない。そこで、より現実味のある形で「地元」と向き合う作品から、呪いと向き合う別の方策を考えたい。
その方策を見事に示しているのアニメのひとつが、『氷菓』だと僕は思う。『氷菓』においては、地元というモチーフはそれほど全面に展開されているわけではない。しかし、ヒロイン千反田えるには、「地元」の呪いの影がたえず付きまとっているのではないか。
名家の生まれである千反田は、そのあとを継ぐ人間としての役割を背負い、自覚し、その役割期待に過不足なくふるまっているように思える。とはいえ、その心の中は語り手である折木奉太郎には完全には理解しきれないのと同様、多分読者および視聴者にとっても本当にはわからない。彼女には彼女の葛藤があるのかもしれないし、ないのかもしれない。もうとっくに地元のこと、そこで生きて背負うであろう役割のことなど、彼女にはとっくに決着のついた問題なのかもしれない。
しかしその決意の一端は、アニメ版における最終話「遠まわりする雛」で明かされる。そこで彼女は「地元」をこう語る。
「見てください、折木さん。ここが私の場所です。どうです、水と土しかありません。人々もだんだん老い疲れてきています。山々は整然と植林されていますが、商品価値としてはどうでしょう?わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも……」
「折木さんに、紹介したかったんです」
千反田は「愛している」などとは口にしていない。むしろ「美しい」とも「可能性に満ちている」とも思っていないと控えめに、しかしはっきりと「地元」への肯定的でない認識を吐露している。
それでも。それでもこの独白のなかには「地元」への「愛」が強く書き込まれていると、僕には思える。千反田は、「地元」の呪いを、彼女の人生のどこかで受け止め、そしてそれを「愛」によってポジティブに反転させえた。彼女にとって地元は、もはや「呪い」に満ちた場所ではない。いや、「呪い」に満ちていたとしても、そこで生きると決めた場所なんだろう。
こういう仕方で認識を反転させることが、地元に相対するひとつの戦略なのだろう。僕にとっては「呪い」でも、「東京」で搾取され疲れ果てた若者たちにとって、たしかに地元は救いだった。山口さんの論文は、僕にはそう読めた。だから、僕もどこかで地元に折り合いをつけなきゃいけないのかもしれない。おりしも『氷菓』を書いた米澤穂信さんが、過ぎゆく時間と和解したように*1。それがいつになるかはわからないけれど。
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『SHIROBAKO』で描かれた、地元と東京との葛藤について。
『氷菓』という作品についての感想。
『スタドラ』と『ブギーポップ』と学校と、みたいな。
地元ではなく、学校の呪いに苦しむ男たちの話なんですよ、ウテナは!っていう文章。
スタドラについて。
アニメ『氷菓』についての記事まとめ。
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