宇宙、日本、練馬

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「忘却の穴」とテロリスト―『残響のテロル』感想 

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 今日の深夜、『残響のテロル』が最終回を迎えました。静かな、そして美しいラストは、「この作品を見てきてよかった」と思えるものでした。少なくとも自分にとっては。以下で適当に感想を。

 個別のシーンの美しさが半端じゃなかった

 『残響のテロル』を見終えて、一番印象に残っているのは、やっぱり画面の美しさ。美麗な背景は東京をリアルに写し取っていて、それだけで「絵になっている」感じがする。その美しさが、真夏が舞台の作品であるにも関わらず、なんとなく硬質で冷たい印象を与えていたりもするような。うだるような暑さを演出しているような場面もあったように記憶しているんですが、それでもなんとなく「寒々しい」雰囲気が漂っているような気がするんですよね。後半は特に。その硬質さ、冷たさにもはっきり意味があるような気がする。

 そして美しい背景はもとより、それだけでなく緊張感にもあふれた個別の場面場面の数々。1話の都庁爆破に始まり、六本木警察署やらなんやらを爆破しようとするナインとツエルブ、そしてそれを防ぐため奔走する柴崎ら警察。中盤には、ナインらと同じ出自を持つ女性、ハイブが登場し、ナインとツエルブが守勢に回る展開にもなった。彼らが守勢に回った端緒、地下鉄爆破をめぐる攻防の緊張感はほんとに手に汗握る演出だったと思います。

 それと後半では、劇伴とあいまってなんとなく幻想的な雰囲気を醸し出す場面も印象的でした。爆弾とともに観覧車のなかに閉じ込められた三島リサを助けるために、爆弾の解除に挑むツエルブ。不可能だとは分かっていても、淡々と作業する彼を、映すこの一連のシークエンスは最高だった。ナインを裏切って助かるか、三島リサと共に死ぬか。この二択をつきつけられて、三島リサを見捨てることのできないツエルブ。彼の心が、ハイブの前に屈服する瞬間に至るまでのこの場面が、僕は一番好きかもしれない。

 こんな風に個別の場面を取り出してみると、印象に残るシーンばっかりなのにも関わらず、全体として、『残響のテロル』という一個の作品を考えると、どうも散漫な印象になっているような気がするんですよね。それはまずやっぱり、Twitterをみていていも同様のことを考えているひとは結構いらっしゃるみたいですが、ナインとツエルブの目的が不鮮明だったことにあるんじゃねーかと。この2人の目標が彼ら自身の口から語られることなく、彼らを追う柴崎たちの捜査を通じて、それがぼんやりと明らかになっていく、という構成に要因があるような気がする。やっぱり動機という一本の線を、明確に示しておいてほしかったというか。それがないと、どうにも主人公たちの側に立って物事を見れないのでなんとなく不完全燃焼な感じがするというか。

 だから暗号を読み解いてテロを防ぎ犯人を逮捕する、という明確な目的を持つ柴崎たちには感情移入できても、目的がいまいち判然としないナインとツエルブにはいまいち感情移入できない、みたいなことになってしまった。逆に言うと、彼らがハイブによって捕捉され、「テロを防ぐ」という明確な目的が設定されている回の方は、彼らの側に立って事件を眺められたんですよね。

 なんか「全体が散漫な印象を受ける」ことの説明になってない気がしますけど、うん、こんなことを思いました。

 

弱者の存在証明としての「テロル」

 1話を見たとき、『残響のテロル』と『太陽を盗んだ男』を比較して文章を冠て見たりしたんですね。


『残響のテロル』1話感想 今、太陽を盗めるのか? - 宇宙、日本、練馬

 そこで、『太陽を盗んだ男』と比べて格段にシリアスな「動機」が設定されてるんじゃないか、と読んだわけですが、それはまあそんなにはずしてなかったと。1話の「施設からの脱走」のイメージがまさしく彼らの動機に結びついていた、というか彼らにはそれ以外に「この世界に引き金を引く」理由なんてなかった。

 彼らの動機は彼らにとってひたすらにシリアスであり、そして究極的に個人的な体験に基づくものだった。在日米軍核武装をもくろむタカ派のモチーフなんかがちらついたりもしたけど、それらはあくまで添え物にすぎなくて、どうとでも置き換え可能なものだったんじゃないかと僕は思う。

 かつて同じノイタミナ枠で放映された『東のエデン』は、出発点は個人だったけれども、目的の主語は「日本」にまで拡大されていたと僕は思ってるんですが、『残響のテロル』はそうではなかった。


『東のエデン』滝沢朗の残響 - 宇宙、日本、練馬

 ナインとツエルブの目的は、「忘却の穴」のなかに捨て去られようとしている自分たち、そしてこの世にいないかつての仲間たちの記憶を、生を救い出すことだった。アテネ計画などという陰謀のなかで、肉体的にも精神的にも残酷な仕打ちを受けた上に、さらにそれが誰にも知られないまま葬り去られようとしている。そんな彼らが「忘却の穴」から這い出る手段として選択してのが、テロルに他ならなかった。しかしそれは陰謀の関係者を抹殺するという形式をとるのではなく、あくまで自らの存在を誇示するために実行された。

 「救うためにテロをも辞さない」という姿勢は、ともすれば自爆テロだったりなんだったり、現実での惨劇の首謀者たちを肯定することにもなりかねない。だからこそ、彼らのテロルは死者を絶対に出してはいけなかった。他者に生を踏みにじられた彼らだからこそ、自分たちを救うために他者の生を踏みにじることなどできなかった。それが彼らが執拗に不殺に拘泥した理由だったんじゃねーかと。

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 彼らの目的が「忘却の穴」から自らと仲間たちの経験を救い出すことだとしたら、彼らは意図せず三島リサを通してそれを達成してもいた。三島リサにとって、ナインとツエルブとの交感がどのような意味をもったのか、それは彼女の「その後」が明確に描かれていない以上想像することしかできない。しかしその交感は、ナインとツエルブの魂を間違いなく救った。1話で三島リサの命を助けた彼らは、同時に自分たちを救ってもいた。だから、テロなんてほんとはどうでもよかったんですよ、きっと(適当)

 

 極めて個人的な体験から出発したナインとツエルブは、極めて個人的な目的のために行動した。それが『東のエデン』と比較して劣っているとか「後退した」とか言うつもりはないけれど、僕はやっぱりちょっぴり残念だった。911後の世界で「テロル」を題材にする以上、やっぱり現代と接続可能な、大文字の社会が問題にされるべきだったような気がどうしてもして。でも彼らが確かに救われたと思えるような、あのラストをみせられちゃーね、こんなことを言うのは野暮ってもんですね。『残響のテロル』、とっても良い作品だと思っています。

 

 

 

 

記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史〈第1巻〉対立

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