映画『氷菓』をみました。以下、感想。
高校に入学した折木奉太郎は、憂鬱な責務を抱えていた。姉がかつてそこで過ごし、そしていまはむなしくも廃墟になりかけている古典部に入部すること。重い足どりでむかったそこで、彼は出会う。一人の少女と、彼女の抱える過去の因縁と。
米澤穂信『氷菓』の実写化。『氷菓』を含めたシリーズを原作としたアニメが放映されて、早いものでもう5年の月日が過ぎている。原作があるということは、そこから遅れを伴って語られるがゆえに、必然的に一種の「読み」がそこに介在せざるを得ない。だからこの実写化は、原作に対するある種の批評として読むことができるだろう。つまり、この実写版においてある問いが前景化しているのである。
それでは、この実写が投げかける問とはなにか。それは、ファーストショット、やけに粗いベナレスの映像がスクリーンに映し出されることで予告されるように、「折木はなぜ”ベナレスから”の手紙を受け取らなければならなかったのか」、ということに集約されるのではなかろうか。この問いを賭け金として、この映画が語るのは、折木奉太郎の物語ではなく、かといって千反田えるの物語でもなく、なにより千反田の叔父、謎を残して消息を絶った関谷純の物語である。
関谷純こそがこの実写版の核であることは、原作あるいはアニメを経由してこの実写版に至った者ならば、ある種の異物感をともなって、この実写版では彼に再会せざるを得ない、ということをもって証明されている。原作及びアニメ版では「セキタニ ジュン」だった男は、この実写版では「セキヤ ジュン」と名を変えている。この変更は、「セキタニ」が「カンヤ」へと読み替えらること、痕跡の抹消の残酷さをいささか毀損しているようにも思われる(実写版の「セキヤ」から「カンヤ」への読み替えには、いささか彼の叫びの残響がこだましているように思う)が、原作を批評し読み替え、それを示すためには必要な処置だったのだろう。原作を既に知るものは、この些細な異物感にこそ、注意を払わねばならない。
原作において、あるいはアニメ版において、関谷純はあきらかに「顔のない男」としてのみ立ち現れていた。彼の居場所はすでに遠くに過ぎ去った場所、明らかな彼岸にあった。しかし実写版では、学校空間のなかで彼が生きるさまが幻視され再現され、顔と身体をともなった一人の人間として現前し、折木らと同じ空間を共有した者として、現代の学校を生きる折木との連続性が強調される。だからこそ、彼の叫びは折木に届き、彼と共振さえするのだ。
薔薇色に塗りつぶされた関谷の物語。生きながらにして死んだ男の物語。この物語は、不意に、ほんとうに不意にベナレスへと連れ去られることで、一種の救済を得る。輪廻の輪から抜け出す可能性の場所からの手紙に導かれ、真実の姿をあらわにした物語は、その場所へと男を到達させ、ここに英雄の死という悲劇に復活の挿話が接ぎ木される。
関谷純の物語がこうして死と復活の神話として語りなおされたことによって、1960年代の日本の片田舎の物語は、歴史に名高く、もっとも知られた男の、十字架にかけられやがて復活した男の物語と重なることになる。だからこの映画は、原作の批評を超え、歴史の批評ですらある、そのような可能性すらもつのかもしれないが、そういう与太話はここらへんでやめておこう。
関谷純については書いたとおりだが、彼の後輩である郡山=糸魚川養子についても、大きな変更がなされていた。このことは、原作及びアニメでは関谷純の叫びを聞き届けられなかった(ように描写されていた)ことへのある種のアンサーなのかもしれない。この実写版では、悲劇を背負ったがゆえに、関谷純の叫びは彼女には届いたのかもしれない。少なくとも、届かなかったとは明確にはわからない、ように思う。
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『氷菓』には大きな借りがある。この映画を公開初日に観にいかせたのは、なによりもその借りである。
- 作者: 米澤穂信,上杉久代,清水厚
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2001/10/28
- メディア: 文庫
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【作品情報】
‣2017年/日本
‣監督: 安里麻里
‣脚本: 安里麻里
‣出演