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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

「わからなさ」が未来を拓く―うえお久光『紫色のクオリア』感想

紫色のクオリア (電撃文庫)

 

 うえお久光紫色のクオリア』を読んだ。Twitter上で面白いとの評判を聞き、『魔法少女まどか☆マギカ』が好きなら読むべき、なんてこともどこかで見聞きしたので、なんとなく読んでみたんですがこれが想像以上に面白かった。せっかくなので、適当に感想を。

 すべてを捨てても、愛する人を守りたい

 『紫色のクオリア』は、「人間がロボットに見えてしまう」ヒロイン毬井ゆかりの特異な能力が明かされる「毬井についてのエトセトラ」と、毬井ゆかりを襲う悲劇とそれを回避しようとする彼女の友人の努力が描かれる「1/1,000,000,000のキス」の二話と、短いエピローグからなる。どちらもゆかりの友人である波濤マナブの視点から語られ、特に「1/1,000,000,000のキス」では毬井ゆかりをはるかに凌ぐ「異能」を手に入れたマナブの幾億年にもわたる戦いがメインになるので、彼女がこの物語の主人公であるといっていいだろう。

 毬井ゆかりという人物の特質と魅力が、波濤マナブの目線で徒然なるままに語られる「毬井についてのエトセトラ」を読んでいるときは、それほど物語に引き込まれているとは言い難かったんですよ、正直。しかし「1/1,000,000,000のキス」の中盤、毬井ゆかりの突然の死からは物語は風雲急を告げ、そこからはもう夢中で読み進めた。この感覚は『STEINS;GATE』でまゆりが死んだときに重なるというか。シュタゲも、まゆりが死ぬまでは結構退屈だと思うんですよ、ぶっちゃけ。その退屈さが後半とのギャップになって活きているとも思うので決して退屈だけど無駄ではないと思うんですが。『紫色のクオリア』も、ゆかりが死んでから一気にフルスロットルでエンジンがかかった。

 その原因を突き止め復讐することを波濤マナブは決意し、そしてゆかりによって偶然にも与えられた力によって、並行世界の自分と会話ができるという異能に目覚める。その力をフルに活用して無数のトライ&エラーを繰り返す。その中でやがてマナブは過去すら改変できることを認識し、「波濤マナブ」という「わたし」すら捨てて、毬井ゆかりの死の運命を回避しようとする。その帰結として彼女が到達したのは、「わたし」を消滅させることだった。

 世界のルールの枠外に出て、誰にも観測されない存在になること。この結果だけとれば、世界を「魔女のない世界」へと再構成し、みずからは「円環の理」と呼ばれる概念と化した『魔法少女まどか☆マギカ』の鹿目まどかの選択と重なる。しかしまどマギでは、「すべての魔法少女」という時間的にも空間的にも無限定な対象のための「祈り」であったが、『紫色のクオリア』においては、ただ毬井ゆかりという一個人を守るためだけに、その選択がなされたという差異がある。その意味では、波濤マナブは鹿目まどかというよりは、暁美ほむらの人物類型と重なるかもしれない。

 しかし『紫色のクオリア』の卓抜した点は、そうした波濤マナブの辿りついた答えを、ストレートに否定した点にあるんじゃないかと思う。読者は、何度も何度も試行錯誤を繰り返し、失敗し、それでも光の如く目標に最短で近づこうとする彼女の努力を追ってきた。そしてその努力がついに果たされ、ついに毬井ゆかりの悲劇は回避された。波濤マナブはすべてを、「わたし」という存在すら捨てて毬井ゆかりを守り、その大願は成就したのだ。波濤マナブとともに、大いなる達成感を共有した読者=わたしは、しかし冷や水を浴びせられることになる。ほかならぬ毬井ゆかりによって。

 

「守りたい」思いとエゴイズム

 誰にも観測されない存在になったかに思われた「波濤マナブだったもの」を、しかし特異な認識能力をもつ毬井ゆかりはその認識能力ゆえに観測することができた。そして彼女は「波濤マナブだったもの」に優しく語りかける。

「あたしの運命を変えられるのは―変えていいのは、あたしだけで、ガクちゃんに、そんな権利はないんだよ?」

 三千世界を駆け巡り数百億の時を超えた波濤マナブが踏みにじってきた、無数の人々。彼女は奮闘の過程で、人をまさしく道具のようにあつかい、いともたやすく殺害すらしてきた。

 その狂気が露わになるのは、毬井ゆかりを守ため、その母親になり替わり、誰にも触れられぬように育てようと画策するくだりだろう。過剰なまでに厳しいしつけと監視のもと、その能力を隠し通して育てようというもくろみ。虐待といっても差し支えないそれは、とりもなおさず毬井ゆかりの人格すら踏みにじることであったにも関わらず、波濤マナブにとっては「とりうる選択肢のひとつ」でしかなかった。毬井ゆかりを守るためなら、彼女の人格すら否定してもいいという転倒。その結果として死が待っていたことは必然であると、気づくことすらない。

 「毬井ゆかりを守りたい」という純粋な思いは、いつしかそのためならすべてを犠牲にしてもいいという、倒錯した狂気へと転化した。そうした波濤マナブの狂気を知ってか知らずか、毬井ゆかりはその途方もない努力の過程を肯定しなかった。すべてを理解しすべてを制御し、その果てにすべてを犠牲にするという波濤マナブの企て。それを否定するために、毬井ゆかりは「すべてを理解すること」の不可能性を「波濤マナブだったもの」に突き付けた。

 その究極的には理解を拒む、他者の他者性、理解の不可能性こそ、波濤マナブが数百億の旅路の果てにようやくたどり着いた答えであり、そして彼女のこれから人生の出発点でもある。

 これって結局、社会学者である奥村隆の『他者といる技法』の論旨と重なる気がするんですよね。

他者といる技法―コミュニケーションの社会学

他者といる技法―コミュニケーションの社会学

 

  「他者は本当には理解出来ないから、理解しなくてもいいんだよ」じゃなくて「理解出来なくてもいっしょにいる方法はある」。他者と関わるその苦しみを投げ出すでも開き直るでもなく、引き受ける。他者という存在を理解しきろうとする欲望を断念し、そのわからなさをまた引き受ける。

 それこそが、辿るべき道でもあり、そして運命さえ変える可能性を開く。そんなことが『紫色のクオリア』のあらゆる可能性に開かれた結末の素晴らしさなんじゃなかろうか。こんなことを思ったりしました。

 

 

紫色のクオリア 1 (電撃コミックス)

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ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

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