このところ、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』をみていました。この作品を、このタイミングで視聴できたことは、なんというか、ありがたいことだと思いました。以下感想。
彼女は道具だった。他者を殺戮し、主に勝利をもたらすための。それが彼女の存在の証明だった。しかし、彼女は深く傷ついて両手を失い、主もまた彼女の前から姿を消した。やがて彼女は、主の友人に導かれ、新たな役割を得た。新たな両手、まがいものの金属の義手によって、彼女は他者を殺すのではなく、他者の思いをくみ取り伝えたいと願った。それはなぜか。彼女の主の言葉の意味を知るために。「愛している」という、巷にあふれ、ありふれた言葉。ともすれば何の気なしに交わされる言葉。その意味を知らねばならないと願ったとき、彼女の物語は始まる。
19世紀後半から20世紀初頭、あるいは第一次世界大戦後の欧州を想起させる、しかしそれとは決定的に異なる地理と歴史とをもつ世界で、手紙の代筆業――それはかの世界で「自動手記人形」とよばれる――に携わる少女、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの遍歴を描く。背景はいうまでもなく稠密で、現実世界の似姿たる異世界を、実在感をもって画面上に現前させることに成功している。
手紙で伝えることがらは、たいていの場合、なんということのないありふれたことがらである。事務的な連絡事項、ともすればおざなりな習慣以上の意味を持つことのない、他者への感謝、云々。何事かの存在を揺るがすような衝撃の事実がそこに書き込まれていることは、そうあることではない。そうでなくては困る。我々が、テクストという媒体を通してまで伝えたいことがらは、きわめてありふれている。
だから、少女に代筆を依頼する人間たちのドラマが、先行するフィクションのなかにそのアーキタイプを発見するのにさほど困難を感じないだろうな、と思わせる手触りをもつのは必然であるのかもしれない。面と向かっては感謝を伝えられない両親へ。遠く未来に生きる愛娘へ。故郷で待つ恋人へ。それらはありふれたドラマだ。我々がよく知る類のドラマだ。
しかし、それがこの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の価値を、いささかも傷つけるものではないことはいうまでもない。そうしたありふれたドラマは、おおよそありふれた言葉を他者に届けることしかできない我々の似姿なのであり、そうしたありふれた、ともすれば陳腐な物事に、ある種の真実性を込めるということが、代筆屋たるヴァイオレット・エヴァーガーデンの仕事なのであり、そして同時に、京都アニメーションというスタジオがこれまで手掛けてきた作品群が証明する、アニメの仕事の一つでもあるのだ。
たとえばアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』は、宇宙人・未来人・超能力者など、「非日常」的なものごとに強く惹かれる少女が、次第にそうした突飛な存在なしの「日常」のまとう面白みに気づいてゆく物語であった。『涼宮ハルヒの憂鬱』の場合は、そうした少女と逆向きの志向(むしろ「非日常」性に強く惹かれていく少年)も描かれたが、その後の『けいおん!』では、そうした現実とかけ離れた存在を画面から追放し、女子高生の他愛もない日常を題材として、その輝きを写し取ってみせた。それらは、ありふれた我々の生を、ある面で肯定するようなニュアンスを含んでいたように思う。
大きな戦争を経て傷ついた世界を舞台にした『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では、無論、それらの作品群と並べてみたとき、日常という語のもつ含意はまったく異なってくるだろう。ヴァイオレット・エヴァーガーデンの日常は、戦禍からようやく回復に向かいつつある過渡期であり、いつ再び火種がつくともわからない極めて脆弱なものなのだから*1。そこで「ありふれてある」こと、そのこと自体の困難。
ありふれた言葉の、彼女が知りたいと強く願った言葉の意味を、「少しわかった」ところでこの物語はいったん閉じられる。ありふれた言葉を、我々はとりあえずわかったような風を装って日々を生きる。そうしたありふれたことのわからなさにかかずらっていては、到底生きてはいけないのだとでもいわんばかりに。しかし、私たちはそのありふれて交わされるわからなさを、ほんの少しでも拾い集めてゆくべきなのだろう。そこにはもしかして、「優しさの理由」が宿っているかもしれないのだから。
「すべてはわからない」。「でも、少しだけならわかるかもしれない」と探偵はいった。この世界のなかで、少しでもわかろうとすること、そのことが探偵の資格なのであり、他者がその手で紡げず、しかし本当に紡ぎたかった言葉たちを見出そうとする彼女は、この揺らぎゆく日常の世界の探偵なのだと思う。