志村貴子先生の『青い花』を数か月かけて読んでいました。僕が語るまでもなく疑いようのない傑作だと思うのですが、感想を書いておきます。
ずっと恋い焦がれた人がいる。彼女を「好き」だと私は思う。彼女も、私のことを「好き」だと言う。それは、なんと幸福なことだろう。でも、二人の「好き」のかたちが、もし違うものだったのなら。それは、哀しいことなのか。それは、恐ろしいことなのか。違うかたちの「好き」を抱えて、二人は一緒に歩いてゆけるのか。
鎌倉のふたつの女子高を主要な舞台に、人と人、あるいは女性と女性が織りなす関係の綾、それがもたらす苦悩と喜びを描く。連載途中で放映されたカサヰケンイチ監督によるアニメ版は、忠実に原作をなぞりつつ、オリジナルの風景を補助線にして、二人――万城目ふみと奥平あきらの関係にある名前が与えられることで結末を迎えた。
原作は、その二人の関係が、単なる名前に留まらない、具体的な――とはいえもちろん手で触れたりすることができるようなものではない、かたちを得、それに彼女たちがどう向き合っていくのか、それが後半に賭けられた主題だったように思う。
高校にいる3年という時間のなかで、二人の周囲では二人とは違った仕方で関係を取り結んでいく人間たちの群像が、私たちの目の前をすぎゆく。最終盤にいたって、固有の名前を与えられない生徒の挿話すら前景化してきさえする。そうした人間たちがなぜ立ち現れなければならなかったのかといえば、それは、私たちそれぞれのもつ、この感情の「かたち」が如何にとらえどころがなく様々でありうるか、それが描き込まれなければならなかったからではなかろうか。
万城目ふみと奥平あきら。一人はすらっと背が高く、一人は小さくかわいらしい。一人はどうにも引っ込み思案のようだが、一人は明るく前向き。一人は「恋すること」を既に知り、一人は未だそれを知らない。この二人の与える印象はまったく対照的であり、それは二人がそれぞれに抱く「好き」という感情のかたちの違いを予示してもいる。
目に見えない、手で触れて確かめることもかなわない、しかしその質感が、あり様が異なることが、痛いほどに伝わってしまうこと。言葉を交わしたりすること、手を触れたりすることは、その二人のなかの感情の微小な差異を看取させずにはおかないことなのだ。他者が他者であるがゆえに、私たちはそれを愛することもできるのだが、それは時折他者の内奥に秘められた、他者の、他者としての恐ろしさに触れることでもある。
だからたぶん、ひとときの別離を経て、再びともに歩くことを決めた最後に、二人の「好き」のかたちは同じようなものになったのかといえば、それはやはりそうではないのだろう、と思う。目には見えないのだが、時折、たしかにちがうのだとわかってしまう、そうした感情のかたちを抱えて、二人は歩かなければならない。十年や二十年先を照らしてくれるものを、ともに分かち持っているのだと信じて。
二人はちがう人間で、ちがうかたちを内に秘める。違う歩幅で歩くことは、時折窮屈であるかもしれない。しかし、そんなことなど問題にもならないことを、私たちは知っている。すこしかがんでキスをする、そのすこしばかり窮屈な所作のなかに、限りない喜びもまた宿っているのだと、『青い花』は教えるのだから。
何と接しても『リズと青い鳥』のことが思い出されてしまい、たぶんよくないのだろうなと、思っています。