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紋切り型をひきうけて——氷室冴子『海がきこえる』感想

海がきこえる〈新装版〉 (徳間文庫 トクマの特選!)

 新装版の表紙のオーラに吸い寄せられ、氷室冴子海がきこえる』を読みました。以下、感想。

 ちょうど半年くらい前、まだ一人暮らしをしていた時、大学のころいっとき付き合っていた子から突然電話かかってきたことがあった。ひどい別れ方をしたために卒業のころにはろくに口もきかない関係になっていたので、携帯電話のディスプレイに名前が表示されたときは身構えたのだが、電話をとってみればなんのことはない世間話ができたりして、お互いの近況を伝えたりとか、くるりの『坩堝の電圧』はマジでいいアルバムだよねとかとりとめのない話をしたのだった。

 『海がきこえる』という小説の手触りは、だいたいのところ、そういう経験と似ていると思う。なんとも触れ難かった、とげとげしいものと感受された過去が、いつのまにかなにやら懐かしく振り返るあたかかなものになっている、そのこそばゆい感じは、小説が刊行されておおよそ30年の時を経てなお、みずみずしさを失ってはいない。

 おおよその筋はスタジオジブリによるアニメ版と重なるが、続編への導線や細部は異なっていて、とりわけタイトルどおり「海がきこえる」シークエンスは、アニメ版では男二人が夕暮れの海を眺めるあのシークエンスに仮託されている(ここはアニメオリジナルの場面でもある)と感じるが、氷室の原作では帰郷したのち、実家では潮騒の音がきこえるということを改めて感受する叙情的な場面で物語が締めくくられていて、こちらのほうが気が利いているというか、洒落ているでしょう。

 また、小説版では西部劇の魅力は「ボーイ」が「マン」になる瞬間をとらえていることなのだ、と知り合いが語る場面があるが、まさにこの『海がきこえる』も「ボーイ・トゥ・マン」を描くある種のビルドゥングス・ロマンではあるだろう。ここでは「マン」の条件とは、いうまでもなく、自身の恋心を発見できることに他ならない。

 それはヒロインに対していだく、いわくいいがたい、なんだか気になる、そういう感情を、「好き」という鋳型にはめることに他ならない。近年のある種の小説的想像力は、そうした紋切り型にやすらうことを肯定的に書いたりはしないんじゃない、という気がするので、そこにたいへんおもしろみを感じた。たとえば(もう「最近」でもないけどさ)綿矢りさの『蹴りたい背中』は、異性の背中を「蹴りたい」というパトスを「好き」ってことじゃんと雑に理解した気になる友人へのいら立ちが書き込まれているのだし、志村貴子青い花』や『放浪息子』も、自身の欲望と、世間一般に流通する紋切り型によるその理解との葛藤こそがドラマの駆動因となる。

我々は成長するにつれて世界に目を凝らすことを止める。手あかのついた紋切り型の世界に満足して、自分の、そして他者の心を忖度することばかり考えるようになる。*1

 上で引いた文章はまさしく紋切り型に抗する想像力を擁護するもののようにも思える。

 この小説の描く成長は、紋切り型を引き受けることによって成し遂げられる。しかしそれが陳腐だとか、正しくないとか、そういうことを言う気にはなれない。紋切り型のなかにあってなお、いや紋切り型のなかにあるからこそ輝くなにか、それを掬い取ることもまたフィクションの役目なのだとするならば、この小説もまた、ひとつえらい仕事をしたといってよいでしょう。

 

 

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 地方の進学校を舞台にしたジュブナイルという点では、『氷菓』および古典部シリーズとも重なるわよね。

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*1:小野紀明『西洋政治思想史講義』pp.20-1