アニメ版『青い花』を見ていました。とてもよかったです。とても。以下感想。
「ふみちゃんはすぐ泣くんだから」
彼女はしばしば涙を流す。彼女をとりまく人々も、また。時は流れる、涙とともに。その意味を、彼女たちはどれほど知っているだろうか。あるいは、私たちは、それをどれほどわかることができるのだろうか。
志村貴子による原作を監督カサヰケンイチ、脚本高山文彦の布陣でアニメ化。鎌倉の街を背景に、女子高生をとりまく色とりどりの人間模様を描く。とりわけ、女性が女性に向ける、曖昧で複雑な感情が、出来事を牽引していく。
その感情によって成り立つ関係を百合という言葉で名指すことはたやすい。このアニメの放映から時は流れ、その言葉はよりいっそう、「ふつう」の言葉としてアニメーションをとりまく空間のなかで流通するようになった気がする。しかし、そうしてわかりよい名前を与えることは、この作品の精神性にあまりそぐわないような気がする。アニメ版『青い花』は、まだ当人たちにもうまく名前を見つけられていない、言い換えるなら未だかたちをもたないものについてのアニメなのだから。
かたちのないもの。それはまさしく身の内に生起する感情そのものの謂いであるのだが、画面の中でそれが託されているのが、やはり、万城目ふみがしばしば流す、涙なのだろうと思う。それは私たちの眼の奥からじんわりと染み出てきて、水玉として眼のふちに留まる。下へと流れ落ちるとき、それはしばしば線を描き、そして微かな痕跡のみを残して消える。眼から生じるその運動は、とらえどころがなく確固たる形をもたない。なぜ万城目ふみは涙を流すのか。それは、未だかたちをもてずにいる心象がその運動を導くからだ。
杉本恭己や井汲京子の涙にもまた、この心象は分かち持たれている。杉本恭己が姉にバイセクシャルという名を与えられて憤るのは、それが場にそぐわない性的な調子をもっているからというだけでなく、やはり、未だかたちと名前をもたずにいるおのれの心持を、世間で流通する定型に押し込めようとすることへのいらだちによるものだろう。
かたちのないものが、いつまでもかたち=名を与えられないならば、どうなるのか。それは記憶と忘却の海をたゆたい、はっきりしていたはずの輪郭や手触りはしだいに薄れてゆく。しかしかたちのあるものが決して消えはしないかといえば、無論そうではない。彼女たちが通った小学校の校舎のように、いつかは必ず消え去る運命をもつ。その意味で、あらゆる事物はこの空間において、冬の花火――寒空に煌めく雪と相通ずる運命を与えられている、ともいえる。
いつか消えゆく景色にとりまかれ、万城目ふみは、かつてかたちを与えることができなかった、それゆえ輪郭を失いつつあったそれの名前を見出して、ひとまずこの物語は終わる。初恋。そのかたち=名はあまりに手垢にまみれている、使い古されたもののようにも思える。しかし、それが、そのありふれた陳腐さゆえに、記憶と忘却の海を確かな航跡を残してゆけるのだと信じたい。彼女がそれを引き受け、それに自分自身の確かな手触りを与えてゆくこと、それはきっと、すべて消えゆくこの世界で、それでも消えない何かを得るための方途なのだと思う。
原作は、これから読ませていただきます。はい。
【作品情報】
‣2009年
‣監督:カサヰケンイチ
‣原作:志村貴子
‣シリーズ構成: 高山文彦
‣キャラクターデザイン: 音地正行
‣音楽:羽毛田丈史
‣アニメーション制作:J.C.STAFF