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「いま」と過去/未来――『未来のミライ』感想

未来のミライ (角川文庫)

 『未来のミライ』をみました。以下感想。

  家族はときどき増えたり減ったりする。彼はそのことを知らなかった。この家に、自分より幼い新参者が現れたりすることを。

 妹の未来ちゃんの出現にとまどう、少年というにはいささか幼すぎる男の子、「くんちゃん」が、彼女を「妹」だと認めるまでの日々を、ファンタジックな想像力で行間を埋め、しかし家族という集まりの機微や幼い子供の感情の発露は極めてリアリスティックに描く。

 くんちゃんの前には時折未来から来たとおぼしき「未来のミライ」ちゃんが現れるのだが、なぜ彼女がくんちゃんの前に現れたのか、その明確な説明は作中ではなされない。作中で描かれる一種の時間旅行は、くんちゃんの白昼夢なのかもしれず、はたまたなにか作品世界を律する力によって生じた出来事なのかもしれず、判然としないように思われる。だからダメとかよいとかそういう次元の話ではなく、ただこの作品はSF的というよりはファンタジックな想像力に満たされていて、作中における超現実的な出来事の解釈の余地はこちらに広く委ねられている、という印象を受けた。

 この『未来のミライ』の特徴のひとつは、登場人物から固有名が徹底して剥奪されているという点にある。妹の未来ちゃんを除いて、明確な姓名が提示される人物は一人もいない。横浜や東京、あるいは山手線や京浜東北線など、地名などにまつわる固有名詞が散りばめられた作品世界において、この隠蔽はとりわけ強い意味を帯びている。

 それでは固有名をもたない彼ら彼女らがどのように名指されるかといえば、それはくんちゃんから眺められたときの関係性というラベルが、彼ら彼女に与えられることになる。おとうさん、おかあさん、ばあば、ひいじいじ、云々。彼らから固有名をはぎとることで、様々な意味をそこに読み込むことができるように思われるのだが、たとえば『サマーウォーズ』が「陣内家」という固有の磁場を家族的なるものに纏わせたことと対照的に、より抽象的な家族的なるものの機微を、ここに託していると読むこともあるいはできるのかもしれない。

 家族、またはそれに近しいつながり。それは近年の細田守監督のフィルモグラフィで執拗に反復されているモチーフである。一方、未来。それはかつて細田守監督が『時をかける少女』で主要なテーマとして扱い、しかしその後のフィルモグラフィのなかで(『サマーウォーズ』は近「未来」を舞台としているが、それはいま・ここと極めて近接している)後退していったモチーフであるように思われる。

 『時をかける少女』で語られた未来の風景は、極めて悲観的だった。このフィルムには明らかに、世界の終わりの予感が写し取られていた。しかし『未来のミライ』はそうした未来の風景は塗りつぶされ、そして過去と未来とがいまのなかに混淆し、まだ幼い男の子の認識のなかで溶け合う。過去の偶然の集積としての「いま」、そして知らず知らずに未来を作り出している「いま」。

 このような「いま」は、くんちゃんが不可思議な出来事と邂逅する場所が、奇妙な(安藤忠雄住吉の長屋を想起させる)家の中庭であることに象徴的に託されている。「中庭」は家の外部ではなく、しかしはっきり内部というわけでもない。「いま」は過ぎ去った過去ではなく、しかし未だ訪れざる未来ではない。外部と内部のはざまの場所が、過去と未来の溶け合った奇妙ないまを現前させる。こうして、まだ世界の把持が曖昧である幼い男の子に託して、「いま」のかたちを描いている点に、『未来のミライ』の達成をみることができるのではないか。

 ふつうの――その「ふつうさ」は時折象徴的な暴力性を帯びる――家族が住む、建築家の立てた奇妙なかたちの家。その家の奇妙なかたちが、奇妙なかたちの「家族」もまたありうるのだという『おおかみこどもの雨と雪』の記憶を想起させ、その「ふつう」さの呪いからこの作品を救っているのだと信じたい。

 

 

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【作品情報】

‣2018年

‣監督:細田守

‣脚本:細田守

‣出演