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お仕着せの物語に抗うこと――『万引き家族』感想

万引き家族 映画 パンフレット

 『万引き家族』みました。以下感想。

  スーパーマーケットに入る少年。父親と思しき男と二人。彼らはしばらくしてそこを出る。何も買わずに、しかし、いろんなものを携えて。

 現代日本、東京の片隅、古びた日本家屋で、家族のように一緒に暮らす人々。その奇妙なつながりを私たちは知る。奇妙な家族が法、あるいは制度の圧力にさらされたとき、そこになにが起こるのか。

 是枝裕和監督の最新作にして、カンヌのパルムドールを勝ち取ったこの作品は、現代日本という場所の息苦しさとやるせなさを、決して力み過ぎることなく、しかし強烈に映す。『海よりもまだ深く』が、団地という、まさに変わりゆく場を舞台として、そこに生きる人間の悲喜こもごもを映したのと比べると、『万引き家族』のモチーフはよりセンセーショナルな感がある。見てもいない人々の脊髄反射的な反応を喚起したのはまさしくそのモチーフによるところだろう。

 とはいえ、人間存在をどのようにカメラに収めるのか、という点においては両者は間違いなく連続していて、異様に自然に感じられる所作や言葉の運び(無論、そこには制作側の強い作為が働いていることは言うまでもないが)は、このフィルムにおさめられた出来事と現実との距離を奇妙に縮めてゆく。年々、殺伐とした息苦しさが強まっているように感じられるいま・ここと連続した場所は、この奇妙な家族のような在り方に強い現実感を与えてもいる。人々のこの現実感、実在感、言い換えれば記号的な類型であること、そうした理解を拒否するようなたたずまいは、この映画の核心にある、とも思う。

 この家に暮らす家族たちは、学校的なるものを拒否し、労働者の権利も踏みにじられ、そして法を犯して、すなわち制度や法の外で生きてきた。後半にいたって、この家族が、制度や法の外に生きる場所を見出してきたがゆえに、まさにその法の力が剥き出しのかたちで圧力をくわえてくる。その圧力が映画のなかでいかなる形で具現化するかといえば、それはすなわち「お仕着せの物語」を強要してくること、これに尽きる。子供は実の両親のもとに戻りたいものだ、子を産んだことのない人間に母親の気持ちはわからない、云々。この「物語を強要するもの」としての権力は、是枝監督が『三度目の殺人』でまさに写し取ったものでもある。ここに、かつてドキュメンタリーをてがけ、現実に生きる人々のなかにある種の物語の必然的に読み込んできたかつての是枝監督自身への自己批判を読むこともできよう。

 しかも、このお仕着せの物語は、質の悪いことに極めて強い感染力をもっていて、お仕着せでない支離滅裂な物語を実際に(時に幸福に)生きていた当の本人にとってすら、「お仕着せの物語」の道徳律は抗いがたいものとして立ち現れる。安藤サクラ演じる女が、「本当の両親」のことを少年に伝えたことも、リリー・フランキー演じる男が「父親」であることをあきらめることも、このお仕着せの物語の道徳律の強靭さのなせる業なのだろうと思う。

 しかし、お仕着せの物語は何も救いはしない。誘拐犯から家族のもとに戻るという「幸福な物語」を与えられた少女に降りかかる苦悶を、私たちは想像する。その視線に宿った幸福な「家族」の記憶がやどっているにせよ、支離滅裂で類型化を拒む、幸福の瞬間が時折訪れる、そのような物語は、お仕着せの物語の前に粉々になり、古びた家屋から人のざわめきは奪い去られ、いまはただ空虚に満たされた箱でしかない。

 私たちが容易くそれによりそい、意識することもなく共犯関係を結んでしまうお仕着せの物語。その無邪気な残酷さの前に立ち止まらねばならない、それがこの映画の要請する倫理のように思われる。

 

 

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  なんというか古田徹也『言葉の魂の哲学』のパラフレーズというか剽窃みたいな感じになってしまった感があってやや反省。

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【作品情報】

‣2018年

‣監督:是枝裕和

‣脚本:是枝裕和

‣出演