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唐突な偶然と向き合うこと――映画『若おかみは小学生!』感想

若おかみは小学生!  映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

 ようやく映画『若おかみは小学生!』をみました。以下感想。

  あまりに突然に訪れた、両親との死別。それをきっかけに祖母の営む温泉旅館に引き取られた小学生、関織子(おっこ)は、なぜだか周囲に出没する人ならざるあやかしどもをともなって、若女将として旅館の手伝いをすることに。

 高坂希太郎の11年ぶりの監督作品は、令丈ヒロ子による児童文学作品のアニメ化。映画公開の直前まで、本作と一部スタッフが共通する2クールのテレビアニメも放映されていて、作品の立ち位置がいささか珍しい感じ。これまで黒田硫黄の原作に見事に肉付けしてきた高坂監督の手腕は、この『若おかみは小学生!』でも十二分に発揮されているといっていい。

 高坂希太郎のフィルモグラフィには、死者の名残が立ち込めている*1。『茄子 スーツケースの渡り鳥』において、原作の「謎」に対して、ある死者の弔いという補助線をささやかに、しかしはっきりと描くという仕方で、高坂監督は原作に対する批評を見事に達成した。『若おかみは小学生!』においても、このアニメ映画化に際して、旅館という空間での具体的な労働それ自体はさほどの重心をもって描かれてはおらず、明らかに、死者という主題に大きな賭け金が置かれているように思う。唐突な他者の死という主題は、『スーツケースの渡り鳥』から継承され、そしてこの『若おかみは小学生!』において作品の中核に置かれ、より残酷に変奏されたといっていい。

 他者のあまりに唐突な死から始まるこの物語において、温泉旅館という空間は、生と死が奇妙に入り混じった場所として現前する。死に接近したことで、既にこの世を去った死者である幽霊たちと交感するおっこ。物語の端緒、旅館に住み込むことになった彼女は、両親という親密な、代替できない他者の死に対して、それほど動揺している様子を我々にはみせない。

 それは、彼女にとって両親の死がそれほど大きな衝撃をもたらさなかったことを、決して意味しない。我々が知っているように、我々はあまりに巨大な意味を持つ出来事に接したとき、咄嗟にその意味を受け取れない、ということがしばしばある。我々はこのあまりに唐突で素早い現実なるものに対して、しばしば後れを取ることになる。出来事の意味に追い付くために、相応の時間が必要になる、そういうことがあることを我々は知っている。後れを取っているとはいえ、しかしそれは決して消え去ったりはしない。意味はいくばくかの後れをもって我々のもとに辿り着き、そして我々を打ちのめす*2

 彼女は両親の死という現実に、未だ追い付いていないがゆえに、その旅館のなかに、いるはずもないと我々が知る彼女の両親の姿をしばしば見出し、そしてその手触りやぬくもりすら感受されるのである。その意味で、幽霊どもが跋扈する空間のなかに、さらに別種の死者の影が忍び込む。

 『若おかみは小学生!』は、そのあまりに巨大な出来事と、幼い少女がなんとかして向き合おうとするお話なのだろう。それでは彼女はどのような仕方でそれと対峙したのかといえば、剥き出しの関織子であることを離れ、「若おかみ」のおっこに「なる」、そういう仕方で、そのような役割を演じることで、その出来事の衝撃力と対峙したのだろう、と思う。「若おかみ」であることで、彼女は出来事のあからさまな力になんとか抗い、日常に戻っていく。

 月並みだが、「家業を継ぐ」という営為、あるいは「継がねばらない」という要請は、ある種の呪縛と見立てることもできる。何者でもない我々に、こういうものであれと要請し、我々の生を規定する有形無形の力。とはいえ、さしさたって何者かであることで、この残酷な偶然の支配する我々の世界を、我々はどうにか生きていくことができるのかもしれないのだし、この陳腐で無意味な日常というものが、陳腐で無意味でありながらも我々を救うかもしれない根拠なのかもしれないと、思う。

 

若おかみは小学生!  映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

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小説 若おかみは小学生! 劇場版 (講談社文庫)

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【作品情報】

‣2018年

‣監督:高坂希太郎

▸原作:令丈ヒロ子

‣脚本:吉田玲子

*1:といったら流石に雑言及な気もするけど

*2:失われた時を求めて』。