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「日常」と「非日常」の曖昧な縁―アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』と『涼宮ハルヒの消失』に関する雑感

涼宮ハルヒの消失 限定版 [Blu-ray]

 

   12月もとっくに半ばを過ぎて、もう新年が目と鼻の先に見えてきている今日この頃ですが、この時期になると無性に『涼宮ハルヒの消失』を見返したくなるんですよね。来年の2月には劇場で見てから5年もの月日が経ってしまうのかと思うと驚きを隠せないわけですが、未だに僕の心に強く刻み込まれている作品で。今日時間を作って見返せたので、ちょっと感想でも書き留めておこうと思います。

 日常を楽しむこと―涼宮ハルヒの場合

 『涼宮ハルヒの消失』は、『涼宮ハルヒの憂鬱』(アニメ版における「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ―Ⅵ」)と全くの対照をなすエピソードだと僕は思っていて。もっといえば、「憂鬱」の延長線上にあるテレビシリーズ全体と対になるんじゃねーかとも。そう見立てることで、「日常」と「非日常」に対して全く違う生き方を選びとるキョンハルヒ、という構図が浮かび上がってくると思うんですよね。

 「憂鬱」において主人公であるキョンは、「非日常」的なるものの極北である閉鎖空間での生ではなく、あくまでも「日常」的な学校生活を選びとった。まあ、その選択は閉鎖空間という現実を「世界の終わり」的なカタストロフと見なし、それを避けようとすするSOS団の面々(団長を除く)によって半ばレールを敷かれたような選択でもあったわけだけれども。

 とはいえ、その選択が他律的だったにせよ「憂鬱」においてあくまで退屈ともいえる「日常」を選びとったことは、その後の涼宮ハルヒの周りの人間たちを、いや何より彼女自身の生を決定づけたことは間違いない。彼女は「非日常」的なるものに魅惑されつつも、あくまで退屈な「日常」をそれでも全力で楽しもうとし続けた。それは具体的には草野球に興じた「退屈」や映画撮影をめぐる「溜息」のように、「日常」をある意味で「非日常」化しようとするものでもあり、他方ではアニメオリジナル回の「サムデイ イン ザ レイン」で描かれたように、「日常」をそのままの「日常」として楽しむものでもあった。

 「日常」そのものを楽しむハルヒを描いたという意味で、アニメオリジナルの挿話である「サムデイ イン ザ レイン」の意義は途轍もなく大きい。ある意味でそれは「憂鬱」の延長線が辿りつくかもしれなかった到達点であり、原作で描かれていないものを、原作が辿りつくかもしれなかった未来の可能性を具体的に描いてしまったという意味で、アニメ版それ自体で自己完結するような構造を作品自体が得たともいえる。このエピソードが時系列上では最後に位置づくのは必然ともいえる、と言ってしまってもいいんじゃないか。かくして、あれほど「非日常」に魅惑されていた涼宮ハルヒ「日常」を受け入れ、楽しむにいたったのである。

 「日常」「日常」として楽しむこと。SOS団の面々との相互作用のなかで、次第にその方向へと変化していったハルヒを描いてきたのがテレビシリーズであったわけだ。

 

「非日常」の抗い難い魅力―キョンの選択

 そんな「日常」を送るキョンに、決定的な選択が突き付けられるのが、『涼宮ハルヒの消失』というわけだ。「憂鬱」では「日常」を選びとったキョンが、再び「日常」か「非日常」か、という選択を迫られることになる。

そんな非日常な学園生活を、おまえは楽しいとは思わなかったのか?

 長門に何故かゆだねられた世界の選択を、キョンは自身のなかでこう解釈するわけだ。日常/非日常という二項対立は、キョンのなかに明確に意識されている。その自問の果てに、彼は自らが選びとるべき答えに辿りつく。

あたりまえだ。楽しかったに決まってるじゃねえか。わかりきったことを訊いてくるな。面白いかそうでないかと訊かれて、面白くないなどと答えるやつがいたら、そいつはほんまもんのアホだ。

 キョンは、SOS団の面々も、ハルヒでさえも、特殊な属性も能力ももたないという意味での「普通な人」である「日常」を捨て、あくまでも彼らが特殊な人間である「非日常」を選びとる。なぜならそれが「楽しい」から。あくまで自らの意思で、それを明確に意識して。

 このキョンの選択は、ハルヒの緩やかな変化と見事に対照をなしている。「日常」そのものをもはや「楽しむ」すべを得たハルヒに対して、「非日常」に魅惑され、そちら側を選びとったキョン。かくして、日常/非日常の双方向の魅力を描くことで、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』は、見事に完結をみたわけである。

 

日常は非日常であり、非日常は日常である―憂鬱のその先へ

 という見立てを僕はしていました。今回見直すまでは。今回見直してみて得られた気付きは、キョンはどうしようもなく「非日常」に魅入られてはいるけれども、単に「非日常」の魅力のみに惹かれているわけではないということ。「消失」は、キョンが「非日常」を選びとる物語であるとともに、それと表裏一体の形で「日常」をも取り戻す物語であるということだ。

 この記事の上で、「憂鬱」でキョンは「非日常」の極北を否定して「日常」を選びとる物語だと僕は述べた。それが「消失」では反転し、「日常」を否定し「非日常」を選びとるような形式になっている。それはキョンの独白、自問自答のシークエンスによって強烈に印象付けられる。しかしそれはあくまでキョンという一人の人間の主観による認識でしかない。

 キョンにとって、異能のものが存在しない改変後の世界が「日常」、宇宙人・未来人・超能力者が一つの部屋に存在する改変前の世界が「非日常」として捉えられている。それは「憂鬱」の冒頭の独白で語られる極めて常識的な認識からなされたものである。このキョンの認識にのっかることではじめて、「消失」はキョンが「非日常」を選びとる物語として立ち現われる。

 しかしキョンの認識を離れ、俯瞰して世界を眺めてみれば、むしろキョンにとっては改変前の世界こそ「日常」であって、改変後の世界はどうしようもなく「非日常」なのだと見ることも可能だ。あくまでキョンがこだわったのは、「いつも通り」部室にSOS団の面々が集い、朝比奈さんにお茶を淹れてもらい、古泉とゲームに興じるような学園生活でもあったはずだ。ここらへんは本編でちらりと顔をのぞかせる。そこには、どうしようもなく「日常」を希求してもいるキョンもいるはずで。

 そう考えると、キョンの選んだものとハルヒの選んだものに、そんなに差はないのかもしれない。「日常」は「非日常」でもあって、「非日常」は「日常」でもありうる。「非日常」とは必然的的にその補完物としての「日常」を必要とし、「日常」もまた「非日常」とゆるやかに連続してもいる。それこそがアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』の到達点なのかなー、なんて。単に言葉遊びをしてるだけという気もするし、当たり前のことを言っているだけという気もしますが、こんなことを考えたのでした。そこらへんの志向が後の『らき☆すた』、『けいおん!』なんかに継承されてんじゃね、というのは与太話ですね。

 

 ハルヒはやっぱり思い出深い作品なので、またなんかあったら書くかも。書かないかも。

 

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ライブアライブ」において、校舎は日常性の象徴なんじゃないか、みたいな。 

 

 

 

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方法としての構築主義

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  今回の記事のタイトルはこの本に所収されてる石井幸夫「種の曖昧な縁――ハッキングの歴史的存在論について」 のパクリオマージュです。内容は全く関係ありません、というか石井さんの論文をおそらく僕は理解してないです、はい。

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