『野火』を渋谷ユーロスペースでみました。Twitter上で褒めてる人が多かったので見に行かねばと思っているうちに日がすぎてしまったのですが、これは劇場に足を運んで本当によかった。見始めてしまったら逃げ場無しという状況に加えて大音響で鳴り響く叫びと哄笑と蠅の羽音。家で観るのとは没入感が雲泥の差どころではないと改めて感じました。以下で適当に感想を。
弛緩した戦場
アジア太平洋戦争末期。フィリピン、レイテ島。かつて外部にある敵を打ち倒すためにそこに渡った兵士たちは、敗色濃厚になるにつれその敵の姿を見失い、最大の敵はもはや自身の内にあるもの、飢えと病となっていた。肺を患い外部の敵と戦う能力を喪失した田村一等兵は、ただ密林のなかを彷徨いつづける。彼は何のために歩き続けるのか。その彷徨の果てに、彼はどこに辿り着くのだろうか。
『野火』は、旧日本軍の兵士たちが最後にはどのような状況に陥っていたのかを、彼らの姿に徹底的に視線を向けることで描こうとする。故郷から遠く離れた異国の地で、もはや敵と戦うために十分な装備も気力も失われ、徹底的に疲弊しきった兵士たち。薄汚れた姿になった彼らの間には、かつて存在したであろう緊張感はまるでなく、弛緩した空気が漂う。その姿や兵士を演じる俳優たちの演技によって、そこにはある種の迫真性、リアリティが生じていて、それがまずすごいなと思いました。
彼らはわれわれにとって他者である
そうした兵士たちは、なによりも我々から遠く隔たった、理解を絶する他者としてカメラに収められている、という印象を受けた。大岡昇平の原作は、田村一等兵の視点から、彼の内面に深く分け入って戦場における個人の心理を克明に描いた。しかし映画という媒体は、そうした個人の内面を映し出すことはできない。カメラが切り取るのは人の表情や身体の所作にすぎない。私たちはしばしばそこから登場人物の心情やら内面を推し量りがちだし、そうした読み解き方は全否定はされなくていいとも思うけど、表情・所作と個人の内面との間には無限の懸隔があることは意識されるべきだ*1。
モノローグのような形で田村の内面を伝えることはできたのだろうが、この映画は(ある個所を除いては)それをしていない。それは田村を、ひいてはかつてそこで戦った兵士たちをあくまで他者として描きだすような効果をもっている、と僕は思った。『野火』は兵士たちの顔に限界までカメラを近づける。その顔の汚れを、やつれた頬を、気力が失われた目を、そしてなによりそうしたものの総体としての表情を、画面は執拗に大写しにする。しかしその顔をいくら眺めてみても、彼らが何を考えているのか、どんなことを感じているのか、それは決定的にわからない。
なぜ田村は執拗に分隊と野戦病院の間を行き来するのか?なぜ貴重極まりない食料を永松に分け与えてやるのか?なぜ彼は歩き続けるのか?そうした問いにこちらの推測込みでさしあたって適当な答えを与えることは可能だろうし、原作読めばある程度書いてあるでしょう。しかしそんなことは問題ではないと思う。あれだけ顔を間近でまじまじと見ているのに、彼らのことはわからない。
その決定的なわからなさが露わになるのが、田村が妻のもとに帰ってきてからのシークエンスであると思う。机に向かい紙に文章を書きつける田村。それを部屋の外から眺める妻。文章を書きつつ食事を食べながら、田村は奇妙な、しかし鬼気迫る動作をしている。それは妻の目線からカメラで写されるため、田村がどんなことをしているのか、その全容は把握することがかなわない。
この儀式めいた動作にも、人肉を喰らってしまったことへの後悔の念が云々とか、理由を推し量ってみることはたやすい。しかし、そのようにして他者との距離を埋める前に、多分、それが妻の目線から、その全体像がよくわからないような形で写されていることの意味を考える必要があるんじゃないか。あれは、妻にとってそうだったように、われわれにとって「わかりようがないもの」の表象として画面に立ち現れてはいないだろうか。
兵士たちだけでなく、戦場そのもの、戦争そのものも「わからない」ものとして描いている、という印象。田村がいったいどこを歩いているのかわからない。闇夜の中で血しぶきがほとばしり肉片が乱れ飛ぶあの戦闘シーンは、個々の死は描写されるが全体としてどのような状況なのか暗さも手伝ってわからない。なんかわからないうちに鉛の弾が飛んできて人がバタバタと倒れていく。それがその場にいた人間の感覚なのでは、とも思ったり。
そうしたわかりようのないものとして、この映画は70年前に終わったとされる戦争を描き出している。しかしわからないからといって、それについて語ってはならない、ということではない、ということも同時に雄弁に語っていることも忘れてはならないだろう。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とかつて大哲学者は言ったが*2、『野火』は、戦争を「わからない」ものとしては描いていても、「語りえぬ」ものとしては描いていない。「わからなさ」を引き受けて、それを「わからない」ままに語ってみせるという実践。そうした歴史を語る所作をフィルムに焼き付けたものが、『野火』という作品なのだと思う。その意味で、『野火』は70年前の戦争をわたしたちが語るためのひとつの構えのようなものを提示しえているとおもうのだけれど、どうだろうか。
映画とは関係ないですが、70年前の今日、9月2日は大日本帝国政府がミズーリ艦上でポツダム宣言による降伏文書に調印した日であります。戦争が法的に終わってから70年という日にこの映画をみたということになんか特別な意味を感じたり感じなかったり。
関連
【作品情報】
‣2015年/日本
‣監督:塚本晋也
‣脚本:塚本晋也
‣出演