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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

才能が輝きだす瞬間―『セッション』感想

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 『セッション』(原題:Whiplash)をTOHOシネマズ新宿でみました。昨日見た『インヒアレント・ヴァイス』と対照的に、シンプルかつ強烈な映画でした。完全にぶっとばされた。以下で簡単に感想を。ネタバレ全開ですのでその旨ご留意ください。

 チャーリー・パーカーは創れるか?

 アメリカで最高の音楽学校、シャッファー音楽学校。その学生であるニーマンは、スキンヘッドの教師、フレッチャに見出され学内最高のバンドのメンバーとなる。そこでニーマンを待っていたのは、『フルメタル・ジャケット』もかくやという、鬼のようなシゴキだった...。

 ニーマンやバンドのメンバーがフレッチャーにしごかれる様子は、完全に『フルメタル・ジャケット』のそれ。人種差別的な罵詈雑言の雨あられ、家族までやり玉に挙げて精神的に追い込む。彼が教室に足を踏み入れた瞬間、メンバーの空気が一瞬で張り詰め、それが画面越しでも強烈に伝わってくるのが凄い。学校で「怖い先生が教室に入って来た時の空気感」ってこういう感じだったなーとありありと思いだす。フレッチャーの場合は音楽学校に入ってくるほどの自信家というか、自負心も少なからず持っているであろう成人男性・女性をここまでビビらせるんだから、半端じゃない。

 先輩を意図してか意図せずか陥れ、可愛い彼女も捨て、シゴキやらあて馬との競争に打ち勝って見事主奏者の地位を得たかと思われたニーマンくんですが、しかし不幸な偶然と強すぎる自負心によって、その身を滅ぼし、フレッチャーに暴行を加えたことで退学処分になってしまう。

 『フルメタル・ジャケット』だったらフレッチャーはニーマンに撃たれて死んでいたわけですが、悲しいかなここは軍隊でなく、ニーマン君の手に銃はない。けれども、フレッチャーの度を超えた指導を告発することによって、フレッチャーを教育者としては破滅に追い込む。

 その後、偶然再会するニーマンとフレッチャー。学生と指導者という関係から自由になった二人の間で交わされる会話の中で、フレッチャーの目指すものが明らかになる。

 「チャーリ・パーカーはなぜ”バード”になれたのか?」。その問いに、フレッチャーはこう答える。「シンバルを投げつけられたからだ」と。拙い演奏に怒ったジョー・ジョーンズが、チャーリー・パーカーに投げつけたシンバルが、観客の前で恥をさらさせ、それが彼を猛練習へと駆り立てた。そうした精神的な負担がなければ、彼は偉大なミュージシャンとして名を残すことはなかった。自身の信念を告白したフレッチャーは、ニーマンを自身のバンドに誘い、ニーマンはそれに応じる。それが再び地獄へ向かう道だとも知らずに。

 

復讐すること、シンバルを投げること

 バンドの一員として、ステージに上がったニーマンは、フレッチャーから全力でシンバルを投げつけられる。それは単に指導者としてのふるまいではなく、自身を破滅させたニーマンへの復讐でもある。全米一の音楽学校という聖域で自由に指導できる特権を奪われたフレッチャーが、それを恨みに思わないわけはない。だから「シンバルを投げつける」というよりは、復讐という感情の方が多くを占めていた、とみるのが適切かもしれない。

 しかし、ニーマンはそのシンバルによって一度はステージを追われたものの、再びステージに戻り、そしてドラムによってステージの主導権をフレッチャーから奪い取る。彼のドラムの前に、フレッチャーの復讐劇は未遂に終わり、そして新たなチャーリー・パーカーがステージ上で誕生する。といったら言い過ぎだろうか。復讐は指導へと意味が読みかえられ、それがニーマンをはるか高みへと押し上げる。その瞬間、フレッチャーはイカれた復讐者ではなく、才能が輝く瞬間に立ち会うことに喜びを隠しきれない、一人の指導者へと変わる。この場面の高揚感は本当に尋常でなく、この場面を目と耳に焼き付けるためだけに、劇場に足を運ぶ意味がある。

  本作は、格闘技とか男の闘いという形容がされたりもしますが、それ以上に師弟関係の葛藤を描いた映画だと、最終的には思いました。憎みあいぶつかり合う二人はまさに泥沼の殴り合いをしているわけですが、しかしそれでもそれは師弟の関係の枠内に回収されてしまう。学校を離れても、師は師であり、弟子は弟子で、その学校空間で形成された関係性の呪縛からは自由にはならない。いくら弟子を憎んでいようとも、その弟子が才能を開花させようとするならば、教師はその手助けをしたいと、その瞬間を見届けたいと思わずにはおれない。弟子も、それがたとえ自分の人生をめちゃくちゃにした/するかもしれない男であっても、高みに導いてくれる確信があるがゆえに、教師にその身をゆだねることを選んでしまう。それは単なる男の闘いを超え、誰も踏み入ることのできない特異な空間を形成する。もはや師弟関係のみで世界は完結するから、彼らの達成が観客に承認される必要などまったくない。だから、「ふつう」の音楽映画のように、観客の拍手による承認なんて甘っちょろいものが挿入される隙などないのだ。

 

 兵士という規格品が創られる過程を執拗に描写した『フルメタル・ジャケット』は、それゆえ必然的に悲劇だったが、最高のミュージシャンというある意味規格外の存在をつくり出そうとする鬼教師と、それに応えてしまった学生を描いた『セッション』は、悲劇ではない。無数の悲劇が積み上がった果ての、一つの達成。かつて東京芸大の入学式では、「諸君らのうち宝石はたった一粒です。その一粒を見つけるために君らを集めた。他は石にすぎません」なんてことを新入生に浴びせたとか浴びせなかったとかいう話ですが、その一粒が輝く瞬間を見れるという至福を味わえるという意味で、とても得難い体験だったと思います。

 

 ジャズや音楽に明るくないので、そこらへんにとくに違和感をもたずみれたことが幸いだったかもしれないですが、とにかく、よかったです。

 

 

セッション

セッション

 

 

【作品情報】

‣2014年/アメリカ

‣監督:デミアン・チャゼル

‣脚本:デミアン・チャゼル

‣出演

  • マイルズ・テラー - アンドリュー・ニーマン
  • J・K・シモンズ - テレンス・フレッチャ
  • ポール・ライザー - ジム・ニーマン
  • メリッサ・ブノワ - ニコル
  • オースティン・ストウェル - ライアン
  • ジェイソン・ブレア - トラヴィス
  • カヴィタ・パティル - ソフィー
  • コフィ・シリボー - グレッグ
  • スアンネ・スポーク - エマおばさん
  • エイプリル・グレイス - レイチェル・ボーンホルト