宇宙、日本、練馬

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見田宗介『社会学入門―人間と社会の未来』メモ

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 なんとなく見田宗介社会学入門―人間と社会の未来』を再読したのでメモ。

 〈越境する知〉、<自明性の檻>の外部

 本書は『社会学入門』と題されているけれども、いわゆる「入門」っぽい語り口なのは入口の部分くらい、という気がする。

序 越境する知―社会学の門
1 鏡の中の現代社会―旅のノートから
2 「魔のない世界」―「近代社会」の比較社会学
3 夢の時代と虚構の時代―現代日本の感覚の歴史
4 愛の変容/自我の変容―現代日本の感覚変容
5 二千年の黙示録―現代世界の困難と課題
6 人間と社会の未来―名づけられない革命
補 交響圏とルール圏―「自由な社会」の骨格構成

  このうち書き下ろしは、1、2、6章なんですが、序、1、2で語られる内容は割と入門っぽいなという印象。そこで、見田の考える(比較)社会学とはなんぞや、ということや社会学的な社会の見方(ゲマインシャフトゲゼルシャフト、「近代」...)が提示され、それ以降は戦後日本社会の問題から、人類史的なパースペクティブをもつ議論にまで射程が拡大する、というような構成になっている。

 

 序と1で語られる社会学の特質を挙げるとするならば、 〈越境する知〉であること、<自明性の檻>の外部にでる可能性を拓けるということ、かなと。前者は学問のスタンス、後者は学問の効用だと思うので並置するのはちょっと乱暴な要約かもしれませんが。

 〈越境する知〉であることとは、自身の問題意識に忠実であることであり、その結果として様々な学問分野を横断することになる、という感じ。越境することが自己目的化するのは違うよね、ということ。

 <自明性の檻>の外部にでるとは、自身の社会の「当たり前」を相対化するということ。見田は自身の研究や旅の例を引いて、現代日本に生きるわれわれとはまったく違う感覚のなかで生きる人々がいることに注意を促す。そうした人々に目を向けることで、<自明性の檻>の外に出られる可能性が開かれる。

社会の「近代化」ということの中で、人間は、実に多くのものを獲得し、また、実に多くのものを失いました。獲得したものは、計算できるもの、目に見えるもの、言葉によって明確に表現できるものが多い。しかし喪失したものは、計算できないもの、目に見えないもの、言葉によって表現することのできないものが多い。*1

  しかしここから一足飛びに近代批判に向かわないところが「社会学」っぽいというか、学問かくあるべしだと思います。

この時に大切なことは、異世界を理想化することではなく、<両方見る>こと、方法としての異世界を知ることによって、現代社会の<自明性の檻>の外部に出てみるということであり、「自分にできることはこれだけ」と決めてしまう前に、人間の可能性を知る、ということ、人間の作る社会の可能性について、想像力の翼を獲得する、ということです。*2

  ここらへんは社会学だけじゃなく社会科学一般の役割というか効用、という気もします。

 

戦後日本の時代区分

 入門的な論考の後に配されているのが、「3 夢の時代と虚構の時代―現代日本の感覚の歴史」なんですが、ここで示されている戦後史の三区分は見田の弟子筋が批判的に継承されているし、なんとなくもう常識化している感じがあるなあと思います。初出は1990年で、そののち『現代日本の感覚と思想』に所収されていますが、『社会学入門』に再録されるにあたってです・ます調に書き改められたり細かい書き換えがあったりするので、引用したりする際にはこっちに則った方がよいのかも。

 見田は、戦後直後から高度成長期を経て現代にいたる流れを、「現実」という語の反対語によって三区分する。それが以下の区分である。

  • 理想の時代 (1945-60 年ごろ、プレ高度成長期) 
  • 夢の時代 (1960-73年ごろ、 高度成長期) 
  • 虚構の時代 (1970年代後半から、ポスト高度成長期 )

 「理想」の時代とは「人びとが「理想」を求めて生きた時代」。ここでいう理想とは、進歩主義的な理想主義者にとってはアメリカン・デモクラシーの、もしくはソビエトコミュニズムの理想であった。丸山真男は論文「「現実」主義の陥穽」のなかで、現実には二側面があるということを示した。現実によってわれわれが制約され、決定されている側面と、現実をわれわれの手で決定し、形成してゆく側面と。理想主義者たちはまさしく、現実を自分たちで形成してゆこうとしていた。一方、政治的なもの以外にも、豊かな生活も理想として描かれてもいた。

 その豊かな生活、American way of life が実現したのが、高度成長期に対応する「夢」の時代というわけである。池田内閣下で日本社会が大きな変動期を迎える中で、消費社会的な豊かさが享受されるようになった。60年代前半はそうした幸福感あふれる「あたたかい夢」の時代だとするなら、先進資本主義国で若者たちが反乱を起こす中で、日本でもそうした動きが生じた60年代後半は「熱い夢」の時代だったと見田は指摘する。

 その後オイルショックを機に高度成長は失速し、社会の熱さはそぎ落とされてゆく。そうしてリアリティは脱色していく。その象徴として論じられるのが、ディズニーランドに象徴される都市のあり方。

 

 見田が示した時代区分は見田の弟子筋である大澤真幸などに継承されていて、大澤は夢の時代はその含意からして「理想」と「虚構」とに分解できるとし、さらに虚構の時代の果てに「不可能性」の時代をみているわけですが、まあそれはそれとして。今回読みなおして、虚構の時代の分析は大澤『虚構の時代の果て』のほうが流石に分厚いなあと感じました。分量が違うので当たり前っちゃ当たり前ですが。大澤の方も近いうちに読みなおしたいです。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 

 

 

あるべき社会の構想―他者の両義性

 そして最終的に本書が辿りつくのは、あるべき社会の構想。その基底には、見田の考える他者の両義性の問題がある。名文なので引用。

他者は第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。一切の他者の死滅したのちの宇宙に存続する永遠の生というものは、死と等しいといっていいものである。[わたしは子どもの頃「永遠の生」を願って、この願いの実現した幾兆年後の宇宙空間にただひとりでわたしが生きている生を想像してみて、他者のない生の空虚に慄然としたことがある。] 他者は第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である。サルトルが言っていたように、「地獄とは他者に他ならない」。想像のものでなく現実のものとしての地獄は、(無理をして例外を思い浮かべることはできるが、)ほとんどが、他者の地獄に他ならない。*3

 これを軸にして社会の構想を示すわけですが、うーん、要約するには力が足りない。あとで追記するかも。

 

関連

虚構の時代の都市を映したロボットアニメ。

『機動警察パトレイバー2 the Movie』 〈虚構の都市〉を生きるというリアル - 宇宙、日本、練馬


 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

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増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

 

 

*1:pp.38-9.

*2:p.40

*3:p.172