宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

新書十二神将を連れてきたよ(四大新書レーベルからそれぞれベスト3を選んだよの意)

 あまた乱立する新書レーベルのうち、岩波新書中公新書ちくま新書講談社現代新書で四大新書レーベルとすることに異論がある人はそう多くないでしょう。無論、これはほかのレーベルからすぐれた書籍が出版されていない、ということを意味しません。ただ、(これは四大レーベルもそうかもですが)玉石混交の新書判書籍にあって、トータルの打率というか、平均的なよさみを比較すると、明らかにこの四大レーベルと他レーベルに厳然たる差があることは、明らかであるように思われます(四大レーベルの中でも格の違いがあるわけですが、それは後述しましょう)。そこで、この四大レーベルでそれぞれ個人的ベスト3を選出し、もって新書十二神将を選出したいと思います。なぜ十二神将かといえば、そのなかに「しんしょ」の文字列が潜んでいるからです。それではやっていきましょう。

 まず十二神将のラインナップを示しておきましょう。出版年も明記しておきます。

 

岩波新書

小熊英二『生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後』(2015年)

内田隆三『ベースボールの夢―アメリカ人は何をはじめたのか』(2007年)

佐藤俊樹『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅』(2005年)

 

中公新書

吉見俊哉『博覧会の政治学―まなざしの近代』(1992年)

竹内洋教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』(2003年)

佐藤卓己言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(2004年)

 

講談社現代新書

永井均『<子ども>のための哲学』(1996年)

古東哲明ハイデガー=存在神秘の哲学』(2002年)

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(2007年)

 

ちくま新書

古田徹也『不道徳的倫理学講義 ──人生にとって運とは何か』(2019年)

重田園江ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む』(2014年)

石原千秋『教養としての大学受験国語』(2000年)

 

岩波新書ベスト3

 1938年に創始された、新書レーベルの祖である岩波新書。歴史あるレーベルですから、戦後思想のある種のアイコンたる丸山眞男の『日本の思想』や大塚久雄『社会科学と人間』、またノーベル賞受賞者湯川秀樹大江健三郎の小著など、もはや古典といっていいだろう著作も数々収められています。近年では、シリーズアメリカ合衆国史、ちょっと前のシリーズ日本近現代史など、通史のシリーズものなんかの印象が個人的には強いです。しかし、マイベスト3には古典も通史ものも入りませんでした。

  1冊目は小熊英二『生きて帰ってきた男』社会学者の小熊英二が、自身の父のライフヒストリーを聴き取り、まとめた本。戦前の暮らしぶり、出征、シベリア抑留。戦後の高度成長のなかで会社を興し、またある種の平和運動にもかかわっていく。一人の人間の生に、いかに大文字の歴史が流れ込んでいったか、というのがありありと浮き彫りになり、とにかく読ませる。岩波新書は原稿の枚数制限が非常に厳しいらしい(とTwitter原武史がいってた)のに、この本は例外的な分厚さが許容されていて、それがめちゃくちゃ効いています。

 

 

  内田隆三『ベースボールの夢』は、ベースボールという競技の発明、そして変容のなかに、北アメリカを覆うエートスの変質を見出してゆく。タイ・カッブというストイックなアスリートから、太ったベーブ・ルースへとヒーローが交代していくのは、まさにそこで勃興していた、大衆消費社会における人間の在り方が映し出されておるのですな。内田は消費社会研究の人から探偵小説研究へと関心の軸足を移したように感じられ(最終講義も探偵小説論だったようだ)、それが学生の時分のわたくしにはなんとなく奇妙な感じがあったのだが、いまになってその必然性が強くわかってきたという気がする。

 

 佐藤俊樹『桜が創った「日本」』は、所謂「創られた伝統」としての桜のイメージの変遷を追っていく著作。目からうろこがボロボロ落ちること請け合いですから、みなさん読んでください。佐藤はこのところ、新書みたいなちゃらいやつをめっきり書かなくなってしまって、それは教員として「ちゃんと」書いている姿を見せなきゃだめだ、という問題意識からだと聞いた気がするのだけど、ちょっと勿体ないにゃんね。『近代・組織・資本主義』を文庫化とか、してくれてもよくってよ。

 

 岩波新書、選んでみたら3つとも社会学者の著作だったので、わたくし個人の関心のありようを再確認した気持ちです。

 

 中公新書ベスト3

 中公新書は1962年創刊、岩波新書に次いで歴史ある新書レーベルです。アカデミックな硬派っぽさでは岩波新書と肩を並べる、いやもう近年は凌駕してすらいるような気もします。個人的に、ベスト3を絞るのに一番難渋したのは中公新書でした。

 

 吉見俊哉『博覧会の政治学は、近代において我々がものをながめる目線——「まなざし」がどのように変容したか、博覧会という場に焦点をあてて探ってゆく。講談社学術文庫に入ったと思えばいつのまにやら高騰しており、本文を読むならこの新書版を中古で手に取るのがよいという摩訶不思議な現象がおこっております。

 吉見の新書はいずれも啓蒙的かつ超絶面白く、岩波新書では『ポスト戦後社会』・『親米と反米』、ちくま新書では『万博幻想』・『夢の原子力』と、(無論他のレーベルから出ているものも含め)どれを読んでも間違いないという十割バッターですが、その中であえて選ぶならこちらでしょう、ということで、他は泣く泣く十二神将から外しました。

 

  竹内洋教養主義の没落』は、大学生がどのようにして「本を読んで自己修養するエリート」でなくなっていったかを跡付ける。ああ、こういうふうにブルデューを使うのか、と教えられた思い出があります。竹内は中公新書丸山眞男の時代』や講談社現代新書の『立志・苦学・出世』なんかも面白かったし、インテリの自意識みたいなものに関心があるなら、まあなに読んでも面白いんじゃないでしょうか。

 

  佐藤卓己言論統制は、戦中に出版社をいびり倒して言論の自由を封殺した極悪人と語り伝えられてきた軍人・鈴木庫三を、史料を丹念にたどって追跡した労作。戦後、メディアで悪役として表象されてきた男は、何を目指して、いかなる実践をなしたのか。過去の出来事に対してなしうる歴史家の仕事として、最良のものの一つであると思います。

 佐藤は、8月15日が「終戦記念日」である、という我々の「常識」が、常識でもなんでもない歴史的に形成されたものなのだと喝破したちくま新書の『八月十五日の神話』も非常に面白いんですが、思い入れでこちらを選びました。近刊『メディア論の名著30』(ちくま新書)もおもしろく読んでおります。

 

以下、泣く泣く選外にしたものについては、記事下で触れます。

 

 講談社現代新書ベスト3

 講談社現代新書は、正直、この四大レーベルのなかでも近年落ち目の感が拭えないかな、という気がします。おお!とおもって手に取った國分功一郎『はじめてのスピノザ』も百分で名著に加筆したやつだったし...。ただ単にわたくしの関心にあれするのがない、というだけだと思いますが。

 

 永井均『<子ども>のための哲学』は、「なぜぼくは存在するのか」と「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という、だれしも子どもの時分に抱いたであろう(そして大人たちに明確な答えを与えられることはついぞなかったであろう)疑問を探求する。

 永井の著作は学部1年生の時の授業で紹介され、またそのころ影響を受けていた先輩が永井均の強烈な信者だったので、わたくしもなんとなく感化されていったという思いでがあります。『これがニーチェだ!』やちくま新書ウィトゲンシュタイン入門』とか、いろいろ思い浮かびますが、やっぱり永井均っぽいのはこれでしょう。

〈子ども〉のための哲学 (講談社現代新書)

〈子ども〉のための哲学 (講談社現代新書)

 

 

  上記の先輩にたきつけられ、ハイデガー存在と時間』を読書会で読むことになって、それからわたくしはなんとなくハイデガーに関心があるのですが、ハイデガーについてなにか強烈な「わかり」のようなものを感じたのは、疑いなくこの古東哲明ハイデガー=存在神秘の哲学』を読んでいる最中でした。ハイデガーの解説本では木田元ハイデガー入門』(岩波新書)などありますが、この古東の著作の稲妻が走るような衝撃は、他の著作にはない気がします。「存在している」こと、それがマジでやべえんだって!すごいんだって!わかんねえんだって!というセンスオブワンダーを共有しなきゃダメなのだ、的なね。

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

  • 作者:古東 哲明
  • 発売日: 2002/03/19
  • メディア: 新書
 

 

  東浩紀について、とにかくインターネットでは「とりあえずくさしておく」対象とみている人が少なくないような気がする。そしてそれらの人々はたいてい東の著作をまったく読んでいないか、『動物化するポストモダン』しか読んでいないのだ。はっきり言っておく。東浩紀の可能性の中心は『動物化するポストモダン』ではなく、このゲーム的リアリズムの誕生(およびそこから『セカイからもっと近くに』へと延びるライン)にあるのだ!と。

 概念装置を整備し、フィクションを手際よく要約し整理し、それを図式のなかに当てはめていく手つきのスマートさでいったら、東浩紀のそれはほとんど職人芸である。蓮実重彦的な文体上のはったり(あれはぼくなどがマネするとめっちゃ無内容なことをだらだら書くだけになるからマジで最悪なんだ)を排し、批評の文体をめぐるゲームのルールの更新に成功した東浩紀の仕事を、いわゆるおたくカルチャーについて何事か語らんとするならばきちんと受け止める必要があると思います。

 

 ちくま新書ベスト3

 ちくま新書は四大レーベルのなかで最も新参で、だから他よりキャッチャーな題材を扱っている本が多い感じもする。

 

 古田徹也『不道徳的倫理学講義』は、むしろサブタイトルの「人生にとって運とは何か」こそメインタイトルにふさわしいという気がする。古代ギリシャプラトンに始まる、「人はこのように生きるべきである」と示そうとしてきた倫理学の仕事が、「運」のファクターをいかに議論から排除してきたかをたどっていく。そしてその「運」すらも勘案にいれる新たな倫理学を構想せんとするのである。

 僕は後輩に『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門』を教えてもらって古田のことを知りました。『それは私がしたことなのか』と『不道徳的倫理学講義』は姉妹編のような味わいになっていて、結論部は重なるところが大きいのだけど、それを導く理路はまったく異なるという、同じ山頂を別ルートで攻めるような感じになっていると思います。ここ数年のわたくしの個人誌をお手にとってくださった皆さんはお察しと思いますが、ありえん影響を受けています。

 

  重田園江ミシェル・フーコーは、お前ら、『監獄の誕生』はこう読むんじゃ!という本です。内田隆三ミシェル・フーコー』(講談社現代新書)もよい本ですが、よりポップなのはこちらでしょう。『監獄の誕生』、わたくしのものの見方を決定的に変えたといっても過言ではない本です。

 

  学部のころだったか、なにかの講義で「君たち、大学受験で石原千秋のやつ読んで、大学受かったからもう捨てちゃお!とか思っているかしらんが、もう一度読んでみたまえよ」みたいなことを言われ再読し、ああなるほど、大学教員が「最低限わかっててほしいこと」というか、ある種の共通了解としてこのくらいはわかれよ、みたいなことが石原千秋『教養としての大学受験国語』に書いてあるのだな、と今になって思います。人文系の学部生のみなさん、マジ、だまされたと思って読んでみなせえ。

 一時期石原千秋の模倣をしていたことがあり、随分前のブログ記事などにその痕跡が見出せるかもしれません。

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

  • 作者:石原 千秋
  • 発売日: 2000/07/01
  • メディア: 新書
 

 

 以上。

 

 十二神将には惜しくも落選した書籍について、以下でリンクを貼っておきましょう。 

 中公新書はほんとうにこれも入れたかった、というのが多い。

 

 

科挙 中国の試験地獄 (中公新書)

科挙 中国の試験地獄 (中公新書)

 

 

 

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

  • 作者:網野 善彦
  • 発売日: 1999/10/01
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吉見の以下の書籍も、ほんと思い入れあるんすね。

 

 

夢の原子力―Atoms for Dream (ちくま新書)

夢の原子力―Atoms for Dream (ちくま新書)

  • 作者:吉見 俊哉
  • 発売日: 2012/08/01
  • メディア: 新書
 

 

 

 見田宗介大澤真幸のラインで社会学に興味をもったわたくしとしては、思い入れはあるんだが、いまなにかあれするものがあるか、というと、あれなんすね(あれが大杉ワロタ)

社会学入門-人間と社会の未来 (岩波新書)
 

 

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 故・坪内祐三の『新書百冊』に倣って100冊あげようかと思ったんですが、さすがに断念しました。いつかリベンジしたいものですわね。

新書百冊(新潮新書)

新書百冊(新潮新書)