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原稿と救い――ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』感想

 巨匠とマルガリータ(上) (岩波文庫)

   ミハイル・ブルガーコフ水野忠夫訳『巨匠とマルガリータ』を先週あたりから通勤中に読んでいました。社会はあたりまえのように何事もなく流れていくのだということを電車の中で実感させられている最中に、その社会が滅茶苦茶になるこの本を読んでいるというのはなんとなく奇妙な心持でした。というわけで以下感想。

  モスクワ、パトリアルシエ池のほとりで議論する雑誌編集者と若い詩人のもとに、悪魔が現れる。イエスの不在を詩人に説く編集長に、悪魔はイエスと彼を処刑台に導いたピラトゥスの物語を語って聞かせる。そして、編集長が今夜首を刎ねられ死ぬことを予言してみせる。その予言が成就し見事に首と胴とが分かたれたのだが、それは悪魔がモスクワにもたらす狂気と狂乱の先ぶれでしかなかった。悪魔によって混乱の渦に叩き込まれたモスクワを舞台に、巨匠と呼ばれる作家とその運命の相手マルガリータ、そしてポンティウス・ピラトゥスの救いをめぐる物語が語られる。

 『巨匠とマルガリータ』というタイトルを冠するにも関わらず、巨匠、マルガリータに出会うために相当の頁を繰らねばならない。その間、悪魔たちは劇場関係者にことごとく不幸をもたらし、劇場では欲にかられたものどもを裸で街中に放り出したり偽札をばらまいたりと、縦横無尽に人々を嘲笑する。しかし、それでもなお、この物語はその名にふさわしく、巨匠とマルガリータ、そして彼らが紡いだポンティウス・ピラトゥスの物語なのだと思う。

 第二部にいたってマルガリータが登場するや、悪魔たちは彼女に恭しくかしずき、彼女は冒険を潜り抜け、そして巨匠とともに救いに至る。ピラトゥスの物語を書き記したことで社会的に抹殺された巨匠は、悪魔の導きでピラトゥスの物語を救いのうちに完結させ、そしてマルガリータとともにおそらく彼岸の安らぎのなかへと帰ってゆく。その一方、エピローグでは現実のモスクワで、悪魔の影の不安のなかを生きねばならない人々の姿が映され、物語の幕は閉じる。

 彼岸と此岸の運命の対比が鮮烈なラスト。巨匠とマルガリータは、そしてピラトゥスには救いが訪れたわけだが、それは現実と虚構が入り混じったこの物語のなかで、明らかに虚構の側に属する出来事として語れているという印象を受ける。悪魔の超現実的な力が巨匠とマルガリータを救い、そして巨匠の書き付けるテクストが、ピラトゥスを2000年の悔恨から解き放つ。それはいずれも、現実の力学を離れた場で生じる。

 もはや救いは現実を超越した場所にしかなく、その現実ではない場所で、言葉の力で救いを形作らねばならない、そのような意思を感じる。そうした意志を読み込ませるのは、これがスターリン時代のソヴィエト連邦で書かれた、という時代背景がどうしてもちらつくから、という気がするのだけれど、スターリンの時代とはたぶん別様の意味で、しかし同様に救いのない時代生きているからこそ、悪魔の狂騒のあとの時代を生きねばならないということを理解しているからこそ、この『巨匠とマルガリータ』には未だ色褪せぬ価値が宿っているんじゃないか。虚構は、悪魔のごとく現実を塗り替え、そして誰かを救う力を持っている。そのような救いを誰が虚構といえようか。虚構によってもたらされたものがニセモノだなんて誰にも断じることなどできない。だからこそ、虚構を語り、読み、そしてそれについて語る意味は不朽なんだと僕は強く思う。それが多分、「原稿は燃えないのです」ということなんだ、とも。

 

 なんかあんまりまとまりがないですが、こんな感じです、はい。

 

 

 

 

悪魔物語・運命の卵 (岩波文庫)

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