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休日の終わり、探偵のはじまり――米澤穂信『いまさら翼といわれても』感想

いまさら翼といわれても

 月日が経つのは早いもので、刊行からもう半年以上経ってしまいましたが、ようやく『いまさら翼といわれても』を読みました。「連峰は晴れているか」と「いまさら翼といわれても」以外は未読だったのですが、非常によかった。以下感想。

 休日の終わり、探偵の始まり

 本書に収められているのは、主に古典部の面々が2年生になってからの挿話。やがてそれぞれの道を見出さねばならない、そのような時期に差し掛かり、彼女・彼らはいかなる選択をするのか、という雰囲気がしばしば漂い、それが表題作にして本書の最後を飾る「いまさら翼といわれても」で強烈に前景化する。そこで描かれたのは、千反田えるというキャラクターの位相が180度変化するような事件であったように思うのだけれど、それについては下の記事で書いたのでここでは繰り返さない。

 自身の立場について、将来について、「自由」を与えられた千反田の状況を本書の言葉を借りて言い表すならば、「休日の終わり」というのがふさわしいのではないか。折木が省エネ主義という立場を選び取るに至ったきっかけを告白する「長い休日」においいて、折木の姉、供恵が奉太郎に向けて語った言葉。

 「あんたはこれから、長い休日に入るのね」。この呪いとも読める言葉は、しかしそのあとに付け加えられた言葉によって祝福のごとき色彩を帯びた予言へと読み替えられる。「きっと誰かが、あんたの休日を終わらせるはずだから」。

 私たちは既に知っている。彼の休日はもうとっくに終わっていることを。私たちが読んできた古典部の物語は、折木奉太郎の休日が無し崩し的に終わる物語だったのであり、彼自身もそのことを肯定的に捉えているだろうことは、本書所収の「連峰は晴れているか」に如実に表れているだろう。

 そして多分、折木とは意味合いが若干異なるにせよ、誰しも「休日」を終わらせなければならない。それはおそらく、「青春」という特異な時空間に身を置くものが背負う必然。たとえばアニメ版『氷菓』で描かれた折木達の過ごした1年は折木奉太郎福部里志にとって、間違いなく「休日」の終わりを刻印するような出来事が描かれていた、ように思う。だから、その後を描くこの『いまさら翼といわれても』においては、彼ら以外の2人の「休日の終わり」を描いた挿話群として読むことができる、ように思う。

 それは伊原摩耶花にとっては、過去の救済と才能との対峙であり、それぞれ彼女を語り手に据えた「鏡には映らない」・「わたしたちの伝説の一冊」で描かれる。古典部シリーズは、学園祭を舞台にした『クドリャフカの順番』以外はおおむね折木奉太郎の一人称で物語を語っていて、本書所収の短編も「いまさら翼といわれても」の一部分を除けば折木が語り手となるわけだが、上記の2編は、折木に代わって伊原が語り手≒探偵役を務める構成になっている。

  その意味で、本書は伊原摩耶花が探偵として立ち現れる物語としても読むことができるように思うのだが、まさにその「探偵として立ち現れる」という事態こそが、「休日の終わり」を告げることとパラレルなのではないか、という感じがする。「謎」を見出した時、人は誰しも探偵となる。生きることとはすなわち人生という巨大な謎に対峙することにほかならず、故に我々は誰しも探偵たりえる可能性を内包しているのだ。

 20世紀において偉大な小説はほとんど探偵小説である、というような文句をどこかで読んだ記憶があるのだが、それはまさしく近代において我々の生そのものが「謎」として立ち現れるに至ったからであり、私たちの生が探偵小説的でありえるような状況こそが、いま・ここにおける私たちの生きる風景なのではないか。

 伊原と河内は、「自身の才能に奉仕する」ことを自ら選び取り、「休日の終わり」に「探偵」として漫画という謎と対峙することを決めた。一方、千反田の「休日の終わり」は、あまりに唐突に、一方的にもたらされた。彼女がそこで生きると決めていた千反田家という、あるいは「地方」という密室は唐突に崩れ持ち、密室の外で彼女自身が謎を解かねばならない。しかしこの「いまさら翼といわれても」の終わりにあっては、彼女は未だ「探偵」ではありえない、と思う。彼女が――物語の始まりにそうであったような「依頼人」ではなく――「探偵」になったとき、彼女ら・彼らの生きる「いま・ここ」という密室がどのような相貌をあらわにするのか。それが語られる日をいまから心待ちにしています。

 

 

関連

クドリャフカの順番』の後日談にしてリベンジマッチである「わたしたちの伝説の一冊」がとりわけ好きで、こういう形で河内の物語が語られてなんというか救われた思いでした。


 

いまさら翼といわれても

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