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不自由で自由なドライヴ――『ベイビー・ドライバー』感想

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 2週間ほど前に『ベイビー・ドライバー』をみまして、これは完璧な映画すぎて語る言葉を用意できねえなとなってたんですが、せっかくなので感想を書いておきます。

  マフィアの手駒として、強盗の逃走用ドライバーとして生きる男、いや男というにはいささか幼すぎる少年。「借金」返済が済めば自由の身にしてやるとうそぶくマフィア。しかし、優秀過ぎるがゆえに代えが効かないドライバーである少年を、マフィアがやすやすと手放すわけはなかった。だから少年は走る。今度は自分自身のために。自由のために。運命の女と共に。

 こう粗筋を提示してみると、これまで数限りなく語られてきたありきたりなお話にみえるが(ありきたりであることが悪いわけじゃもちろんないけど)、『ベイビー・ドライバー』はありきたりの物語、いわば古い酒を、まったく新しい革袋に移し替え、そして見事な傑作になっている。新しい革袋とは、主人公の聴いている音楽にアクションを完璧にシンクロさせること。アニメのオープニングであるとか、非公式のAMVであるとか、そういった類の不自然に音楽とシンクロナイズした映像を、違和感なく実写のアクションへと持ち込んでみせ、なおかつそれを徹底してみせたということに、『ベイビー・ドライバー』の新しさはあるように思う。

 主人公であるベイビーは常にアイポッドを携帯して音楽を鳴らし続ける。そしてその音楽が行動の規範であるかの如く流れるように身体を運動させる。音楽という規範に従うことは、それはある意味で不自由なことだ。他者の刻むリズムに耳を傾け、それに身体をゆだねるのだから。しかし、その「不自由」さは、マフィアの駒であるということによる不自由さとは異なる質感をもつ。その音楽に身をゆだねている限り、少なくとも彼の精神はこのうえなく自由なのだから。たとえば極めて優秀なサッカー選手を想起するならば、彼はフィールド上で最も自由であるのと同時に、最もサッカーのルールという規範に拘束された存在でもあるわけだが、その自由と不自由の同居のなかで生きるベイビーにとって、音楽という規範によって立つからこそ、不自由のなかに自由な世界を見出せるのだろう。

 『ベイビー・ドライバー』は、徹頭徹尾不自由で自由な人間の映画ではないか、という気がしていて、だから規範を無視するという仕方で奔放な自由を生きる男、ジェイミー・フォックス演じるバッツは最期の敵にはなりえない。犯罪とドラッグに依存し、運命の女と共に生きるという仕方で、不自由のなかの自由に生きる男こそ、ベイビーの最後の敵にふさわしい。『ベイビー・ドライバー』はひたすらに爽快で痛快で完璧なアクション映画だけれども、同時にこの不自由のなかに投げ込まれた我々に一つの身の処し方を教えてくれる、優れて啓蒙的な映画でもあると思うのです。

 

 

Baby Driver (Music From The Motion Picture)

Baby Driver (Music From The Motion Picture)

 

 

【作品情報】

‣2017年/アメリカ

‣監督:エドガー・ライト

‣脚本:エドガー・ライト

‣出演