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世界の終わり、20世紀のはじまり――プルースト『失われた時を求めて』感想

失われた時を求めて〈10 第7篇〉見出された時 (ちくま文庫)

 僕にとって2017年は、なによりもまず『失われた時を求めて』を読んでいた年として思い返されるのでは、と思っています。どこまで読めたのかというとそれは非常に疑問で、むしろこれから読み始めるといっても過言ではないわけですが、とりあえず感想を書き記しておきます。

  全7篇、ちくま文庫版で全10巻にも及ぶこの長大な小説は、芸術とは何か、恋愛とその苦痛、そして天職とは何か、等々、様々な主題がある、とされる。19世紀末から20世紀初頭、第一次世界大戦後までのあいだに、語り手が社交界のなかで様々な人間と出会い、そして恋に身を焦がし、やがて作家として自身の経験を小説にすることを決意する、要約などおおよそ意味があるとは思われないが、あえて粗筋を提示するならばこのような感じだろうか。

 たしかに、この小説のなかで芸術、恋愛、天職等々のモチーフが重要であることは認めよう。しかし、僕にとってこの『失われた時を求めて』は「世界の終わり」を描いた小説であるように思われた。

 作中でとりわけ印象的だったのは、死と老いを描写するシーンの数々である。フェルメールの風景画「デルフトの眺望」をまえに作家ベルゴットが息絶える場面、祖母に近づいてくる死の足音、そしてあとになってようやく実感されるその死。老いさらばえ、自身の死を最早避けがたいと感じるスワン。語り手の周りの人物は否応なしに年を重ね、そして知らぬ間に語り自身も老いている。唐突に実感される老い

 死と老いは個人的なものであるのだが、その一人一人が集合して社会的なるものを構成する以上、個人の死と老いの集積は、社会、あるいは世界の死と老いとを意味する。だから、語り手の属する社交界もまた老い衰え、その相貌を否応なしに変えてゆく。その変化が描かれるのが最後を飾る「見出された時」であって、そこに至るまでの長大な描写の集積は、徹頭徹尾ここにおける世界の終わりを描くためにあったのだといっていいと思う。「見出された時」を読み進めているさなかの、あの見知った世界が次々塗り替わり消え去っていくような感覚を、いままで味わったことはなかったし、これからも味わうことはないだろう。

 しかし同時に、『失われた時を求めて』はその「世界の終わり」という破局を回避する、すなわち世界を救うテクストでもある。そこで描かれているのは世界の老いと死なのだが、しかしその老いと死のうちにあってなお、世界は救済されているのである。それはどのような仕方でなされているのか、言うまでもない、作家によって描かれる、という仕方で、最早過ぎゆき、老いて死した世界は、永遠の命を得てもいるのである。

 見出された時に至って、そして再びこの小説の冒頭に立ち戻るとき、ここでいかに苦心して作家が一つの世界を立ち上げようとしていたのか、その苦闘の痕跡がようやく感受される。冒頭にみなぎる異様な緊張感、それをもたらす文体は明らかに、世界を一から創造せねばならないという使命を帯びているからこそ、そのような感覚をまとっているのだ。世界は終わり、そして始まる。19世紀的なるものはこうしてテクストのなかにその死と再生とを折り込まれ、20世紀へと手渡された。

 

 僕にとってこの長い旅は老いと死の先取りのような経験でもあった。たぶん数十年後、世界の、あるいは見知った人の、あるいは僕自身の老いと死とを体感してからこの小説を読むならば、まったく違った感覚が喚起されるような気がする。いずれ再び、必ず、またこの小説と出会う時がくるでしょう。