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裏切りと救済――『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』感想

映画『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE(デッドアップル)』オリジナルサウンドトラック

 『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』をみました。これで、尊敬するクリエイターへの恩返しがほんの少しばかりはできたのではと勝手に満足しました。以下感想。

  異能の力をもつものたち、「異能力者」が跋扈する横浜。そこに、6年ぶりにある男が帰ってくる。かつての騒乱の際に、横浜を乱した男は、世界各地で異能力者たちを弄び、そして再び横浜に立つ。男の名は澁澤龍彦。龍の名をもつその男を迎え撃つ「武双探偵社」の面々。新参者の探偵社員にして虎の力をその身に宿す中島敦の前に、彼自身も忘却した、龍との因縁がよみがえる。

 『文豪ストレイドッグス』の劇場版は、原作には存在しない異能者・澁澤龍彦をその中心に据え、原作への批評ともいうべき物語を語ってみせた。TVアニメ版の(そしておそらくは原作の)特徴はいくつかあるが、それは一言でいえば軽薄さともいうべきものだった。文豪という極めて強力な磁場を放つ固有名詞を背負う主要人物たちは、異能の力である「異能力」――このネーミングの素朴さと、それがまとう意味については先日書き記したのでここでは繰り返さない――をもつ。

 強力な固有名詞を背負わされ、異能力というフィクショナルな道具立てを内在したキャラクターは、誤解を恐れず言えば、作劇のなかで極めて類型的・記号的なキャラ付けがなされている。自身の力を制御できず惑う若者、それを導く、過去の影をまとった男、そしてその男のかつての相棒にして現在の好敵手、云々。それらは過去のまんが・アニメのなかにありふれて存在するものであり、その意味で『文豪ストレイドッグス』のキャラクターたちは極めて類型的・記号的である。その名を実在の人物から借り受けたキャラクターたちは、そのパーソナリティにおいても、過去の無数のフィクションの抽象的な引用を思わせる。

 無論、類型的・記号的であることがすなわち欠点であるわけではもちろんない。ありふれた類型的・記号的な登場人物たちによって、あるいはそのような物語(そうした類型のアーキタイプを、おそらく私たちは神話と呼ぶ)によって、私たちの心が動かされる、ということもまたありふれた出来事なのだから。

 それではなぜここでキャラクターたちの類型性――それを「軽薄さ」と言い換えてもいい――をここで強調したのかといえば、この『DEAD APPLE』は、おそらく極めて意図的に、その軽薄さをキャラクター自身と対決させる、そのような見立てが背後にあるからである。澁澤龍彦の異能力によって、異能力者たちはその異能力を奪われ、人として化身した異能力と対決することになる。ここで、文豪の名を持つ異能力者は、単に文豪の名を持つだけのむき出しの類型として、その身をスクリーンに晒さねばならないという試練が課せられるわけだ。

 TVシリーズから、素朴な問いのまえに煩悶することを宿命づけられた男、中島敦は、その異能力者のなかでもとりわけその状況に苦悶する。自身が「ごくつぶし」と罵られ孤児院という居場所を追われるきっかけをつくった彼の異能は、彼にとってはかつては忌むべき傷であり呪いだった。しかしそれが、いま探偵社の一員として横浜の街に在る彼にとって、それは自身の「有用性の証明」であり生きる根拠を形作るものでもある。その両義性のなかで、彼はこの映画のなかでも繰り返し煩悶し、「あいつとはいっしょに行けない」、「太宰さんがそんなことをするわけない」などなど、「~~ない」という否定的な言辞が、彼の言葉を彩る*1

 その彼が澁澤との対決のなかでつかみ取った境地、それこそが「異能力」こそが自分自身である、というものだった。ここにおいて、文豪という名は意味をほぼ消失し、そして類型的・記号的なパーソナリティなどは問題にもならない、異能の力というフィクションのなかにおいてそのフィクション性の極限ともいえるものに、この作品の真価が託されたのである。『文豪ストレイドッグス』において、「文豪」であることを投げ捨てること。それこそが中島敦の選択に賭けられているのである。

 いわば作品を裏切り、裏切るという仕方で救済する。あるいは、作品の核心を殺害し、しかし同時に救済を与える。自身の死という局面において、「生の輝き」を見出すこと、そのことにおいてしか退屈を紛らわすこと、救われることのできなかった男、澁澤龍彦。裏切りという所作を、しかし世界を救うことのためにしてみせた太宰治。この二人のなかに、『DEAD APPLE』という作品の核心が宿っていたのだと、信じて疑わない。

 

 

 

*1:ここにあるいは碇シンジの残響をみることもできよう