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日常をめぐるパラレルなユニゾン────『きみの色』感想

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  山田尚子監督『きみの色』をみました。いや、素晴らしかった...。以下、感想。

 カトリック系の女子高に通うすこしぼんやりした雰囲気の少女、日暮トツ子は、同学年で聖歌隊で活躍し級友や後輩たちからも一目置かれる作永きみのことがなんとなく気になっていたのだが、きみは突然、高校を退学してしまう。街の書店できみをみかけたという噂を聞いたトツ子は街の書店をめぐるのだが、きみは容易には見つからない。そんな折、白猫に導かれて偶然立ち寄った書店でギターをつま弾くきみを見つけたトツ子。そこに居合わせた高校生の少年を巻き込んで、トツ子の思い付きでスリーピースのバンドが結成されることになり、少女たちと少年の思いがけない時間がはじまる。

 山田尚子監督の最新作は、長崎を舞台に、少女・少年のつかの間の交感を描く。脚本は『リズと青い鳥』の吉田玲子、キャラクターデザイン・作画監督は『平家物語』でもタッグを組んだ小島崇史と、盤石の布陣で満を持してのオリジナル作品を世に送り出した。

 どこか儚げなキャラクターデザインやかしましい女子高の様子、そしてなにより牛尾憲輔による劇伴など『リズと青い鳥』を想起させるモチーフに溢れているが、張り詰めた糸のような緊張感に満ちていた同作に比べると、この『きみの色』はもっとゆったりとした、心地よい時間が流れている。それは舞台となった長崎という街の懐の深さがそうさせるのでもあろうが、なにより主人公であるトツ子のキャラクターがそうさせるのだろう。

 幼少期にクラシックバレエを習っていたが、どうも周囲の子どもたちと比べるとうまく踊ることができなかったことが冒頭の場面で示唆され、早いうちにやめてしまったことがトツ子の口から語られる。ふくよかでゆったりとした雰囲気の彼女はすこしぼんやりしたところがあるようで、その意味では『けいおん!』の平沢唯の反復・変奏のようにも感じられる。平沢唯はそうした個性が誇張されることで作品自体の雰囲気も決定づけたわけだが、トツ子のそれは、平沢唯ほどの誇張がないかたちで、現実感のある描写に軟着陸させている。

 そんなトツ子を中心にバンド活動を行う、というのも『けいおん!』と共通ではあるが、ガールズバンドではなく男女混成、部活動という場でないかたち、そしてテルミンのような変化球ともいえる楽器を編成に加えてみせて、単なる反復・再生産ではないぞという意気を感じる。

 一方で、日々過ぎ去ってゆく生活の反復としての日常に喜びを見いだし、擁護してみせるという、『けいおん!』以来の山田尚子のフィルモグラフィに通底するモチーフは手堅く継承されていて、映画の限られた時間のなかでもトツ子たちの日常の時間を見事に立ち上げている。少女と少年はそれぞれ家族との関係に葛藤を抱えているが、それが深刻な調子で前景化することなく、日常のなかで穏やかに処理される。恋愛感情と形容するにはすこしばかり仄かすぎるような感情の揺らぎが示唆されもするが、それが人間関係に大きな軋轢をもたらすことはない。このスマートなタッチは明確にこの作品の美点だろう。

 作中ではしばしば、画面を横切るようにキャラクターが移動するさまが印象的に映され、またカメラが横移動するような演出もみられるが、この印象的な反復は、繰り返される日常のなかにあってもひとときにとどまることを許されないという時間の格率を強く刻印しているようにも思えた。一方で、予告編で印象的に使われ、作中でもクライマックスを大いに盛り上げる「水金地火木土天アーメン」は反復される日常の暗喩としての円運動を力強く擁護しているようにも思えて、こうした「必ず終わる」が「さしあたって続く」ものとしての日常をこそ、この映画は、あるいは山田尚子という作家は擁護しているのだと思う。

色というのは光の波のようなもので、長さのちがう光の波で、いろんな色のかたちになる...らしい

 予告編でも印象的に使われた上記のフレーズは、この映画のタイトルである「色」がなにによって形づくられるかを示唆することで、作品中で重要なモチーフがなんであるかをわたしたちに教えているという気がする。思えば『リズと青い鳥』のなかで最も美しい場面は偶然に楽器が反射した光をめぐる一連のやりとりであったのだし、『平家物語』の羊文学による主題歌も「光るとき」であった。

 いくつかのきらめきが重なりあい、思いもかけない新たな色を生み出すこと。その可能性の場をこそ、わたしたちは日常と呼びうるのであり、そうした色合いを見出しうる目をこそ、わたしたちは鍛えていかねばならないのだろう。

 

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