『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』で高まったガンダム熱により『機動戦士ガンダム 水星の魔女』をみたのだった。以下、感想。
人類の宇宙進出が進み、少数の宇宙居住民、スペーシアンが、地球に住むアーシアンから搾取し、ある種の特権階級となった世界。地球においてコントロールされた絶え間ない戦争を生じさせ、そこからスペーシアンたちが利益を吸い上げる構造ができあがっていた。その中心にあるのが、巨大な影響力をもつ企業群、ベネリット・グループ。そのグループの運営する教育機関、アスティカシア学園では、ベネリット・グループ総帥の娘、ミオリネ・レンブランの花婿の座をめぐって、企業間の代理戦争ともいうべき、人型戦闘兵器モビルスーツを用いた決闘ゲームが行われていた。
そんななか、もはや見捨てられた辺境ともいうべき水星から、転校生があらわれる。その少女、スレッタ・マーキュリーが「家族」とよぶモビルスーツ、エアリアルは、かつて禁忌とされ関係者が虐殺された、「GUND-ARM」=ガンダムとしか思えぬ技術を搭載していた。思いがけず決闘ゲームに巻き込まれたスレッタだが、それは学園をはるか超えてはじまる、巨大な抗争のはじまりにすぎなかった。
2022年から翌23年に放映された、『機動戦士ガンダム』シリーズの1作。監督は『ひそねとまそたん』の小林寛、脚本・シリーズ構成に『∀ガンダム』、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の大河内一楼。テレビシリーズにおいては、女性キャラクターが主人公となる初のガンダム作品である。
学園で行われる花嫁を賭けた決闘ゲームに巻き込まれ、傲慢な花婿を打倒して女主人公がその座につく…という第1話の展開は、否が応でも幾原邦彦監督による『少女革命ウテナ』の記憶を喚起する。とはいえ、その後の展開は学園における企業間の代理戦争をめぐる陰謀劇となるので、『ウテナ』っぽさは後退していくし、全体をつらぬく家族間の葛藤、呪縛というモチーフも、『ウテナ』の重力からはかなり離れている。
『ウテナ』的な学園における決闘を中心としたフォーマットをロボットアニメに導入した作品としては、『ウテナ』でも脚本を務めた榎戸洋司による『STAR DRIVER 輝きのタクト』が即座に想起されるが、『水星の魔女』ほど第1話の構図は似ていなかった。『水星の魔女』におけるあからさまな引用は、ガンダムという形式のなかである種の「革命」を成し遂げてみせようという宣言のようにも思える。実際、『水星の魔女』はガンダムシリーズのお約束を踏まえつつも、時に大胆に新機軸を打ち出していこうとする野心を随所に感じさせる意欲作であったように思う。
主役機であるガンダムエアリアルは、「GUND-ARM」技術を用いた遠隔操作ドローン、ガンビットを巧みに用いて決闘で次々相手を破っていくが、この攻防一体、盾にもなれば遠隔射撃もこなすガンビットのアクションは、『機動戦士ガンダムUC』でみせたフルアーマーユニコーンガンダムのそれをよりブラッシュアップさせた感があり、この作品のロボットアクションの大きな魅力になっている。いかんせん2クールという尺もあって、エアリアル以外のモビルスーツの印象がやや希薄になってしまったきらいもあるが、全体としてモビルスーツアクションは高水準で、ガンダムシリーズの面目躍如といった感じであった。
それ以上に、『水星の魔女』の大きな魅力はサスペンスフルな作劇にある。おそらくシリーズ構成の大河内の手腕がいかんなく発揮されてのことだと推察するが、安全な箱庭としての学園、その対比としての殺伐とした外部というギャップをうまく活かして、キャラクターの、そして視聴者の感情を巧妙に揺さぶり、時にキャラクターに苛烈な運命を与えて試練を課す、そのストーリーテリングは見事だった。
スレッタの母親にして仮面の女、プロスペラは、能登麻美子による好演もあって柔らかな物腰ながら昏い深みを感じさせ、その正体や目的を賭け金にして、サスペンスを持続させることに成功していた。その上で、プロスペラの思惑とはまったく別個に走る、穏やかな貴公子然としたシャディク・ゼネリによる謀略が展開されるプロットは実に巧妙。両者の陰謀の相乗効果で事態がどんどん悪化していくセカンドシーズンの展開は、まさしく大河内一楼の真骨頂だろう。
結部の、多くの死者すら召喚される展開はやや「なんでもあり」にすぎるというか、オカルトはガンダムシリーズのお家芸といえばそうなのだが、そうはいっても底が抜けてしまっている感じはした。とはいえ、家族のあいだの葛藤、父や母の呪縛という普遍的かつ今日的な主題を引き受けて、かつ前向きで穏当な決着に辿りついたこと、そのバランス感覚は好感をもった。
もし4クールの尺があったなら、仮想身体・拡張身体としての「GUND-ARM」というSF的な主題ももっと深堀りできた気はする。2クールは決して短いとは思わないが、この作品はその尺に収まりきらない豊かな可能性を持っていた気がするのだが、それは結局ないものねだりというものでしょう。結末において、スペーシアンとアーシアンの対立や格差が解消したりだとか、そうした作品世界そのものの問題が解消されるハッピーエンドが訪れたわけではない。しかし世界がすこしでもよくなるようにと歩みを続ける彼女たちの、ささやかな革命は、これからも続くし、続いていかなければならないのでしょう。