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村上春樹『アンダーグラウンド』感想、あるいは『輪るピングドラム』の「呪いのメタファー」

アンダーグラウンド (講談社文庫)

  村上春樹アンダーグラウンド』を半年くらいかけて読んでいました。たぶん2年前くらいからなんとなく脳内の「読まなければならない」リストに入っていて、ちょと読んではきつくなって放置、というのを3サイクルくらい繰り返してたんですが、今回時間をかけてようやく最後まで頁を繰りました。以下感想。

  1995年3月20日、朝。いろいろな出来事がおこったりおこらなかったりして、ただ過ぎていくはずの一日だったし、実際日本に住む人々にとってはそうだった。多分、ただありふれた一日だった。しかし、偶然、その場所に居合わせてしまった人にとって、おそらくその一日は人生を左右する決定的な一日だった。

 オウム真理教による地下鉄サリン事件。その被害者を中心とした関係者60名あまりにインタビューしたこの本を読み進めることは、その決定的な一日の様子を60回あまり反復することを意味する。それははっきりいって僕にとっては苦しい読書だった。

 僕はこの本を、通勤電車に揺られながら読むことはできないだろうな、と思った。インタビューの中心にあるのは、地下鉄サリン事件当日の様子だけれど、どのインタビューでも必ずと言っていいほど、その被害者・関係者の生い立ち・人生・現在の状況にかかわるエピソードが前置きとしてあって、そこから当日の様子の聞き取りに入っていく、という構成になっている。だから、インタビューを通して、その人の人となり、言ってしまえばある種の顔のようなものが、文章を通して浮かび上がってくる。

 このことが突き付けるのは、普段同じ空間を共有しながら移動する無数の人々について、僕はあまりに無関心だということ。当たり前のことだけれど、満員電車に乗り合わせた無数の人々それぞれに、その人固有の人生があり、歴史があり、物語がある。なんとなく朝から皆さん疲れているような雰囲気を感じるのだけれど、その疲れた顔にもそれぞれの固有の人生というバックグラウンドがあるに決まっているのだ。でも僕はそんなことに普段は思いを馳せたりなんてしない。ただ毎日、無数の知らない人たちと電車に揺られて職場へと運ばれていく。その同乗した人たちにもそれぞれ人生があるなんて当たり前のことを忘却の彼方へと追いやって。

 別にそういうことが悪いとかよいとか言っているのではなくて、ただそのように移動するしかないものなんだろうと勝手に思っているのだけど、それでももし僕がその最中かに、通勤電車に乗る人の物語が詰め込まれたこの『アンダーグラウンド』という書物を読んだとしたら、そういう仕方で「いつものように」通勤することに困難を感じるのではないか。そんなことを思ったり思わなかったりして、結局寝る前にちまちまと読み進めていたのだけど、寝つきがはっきりと悪くなる感覚があったので、これもベターな選択ではなかったのかもしれない。

 とはいえ、僕はこの本を読まなければならない、という強い思いがあったがゆえに、寝つきが悪くなってなお頁を繰り続けたのだけど、そのような思いを維持できたのは、そのことを絶対に確認せねばならない、という意思があったからではないか、といま思う。僕が『アンダーグラウンド』を読んで確認しなければならなかったこと、それはたぶん、「世界を破壊したい」という欲望が成就したとして、それが破壊するのは個人個人の固有の人生であって、世界なんかではない、ということだったんだろうと思う。

 これは無責任とか倫理の欠如とか指弾されることを承知で書くのだけれど、ままならない人生を生きていると感じる時、そんなとき、なんとなく、世界がぶっ壊れたらいいなとか、そんなことを思ったりする。すべてが崩れ去ってしまったならば、この人生をままならないものとする無数の根拠のようなものもまた崩れ去り、なにがしかのことどもから解放されるのではないか、そんなことがふと頭をよぎることがある。

 

  これに関して、『涼宮ハルヒユリイカ』所収の佐藤俊樹涼宮ハルヒは私たちである」なんかが、そういう欲望と関わるものとして『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品を捉えているという気がして、端的にはこんなふうに指摘している。

涼宮ハルヒの裏の顔は、(中略)「巨大災害後」という想像を楽しんできた私たち自身ではなかろうか。

 

 この佐藤の文章はいまでも折に触れて思い返すくらいに僕の心に残ったのだけど、『涼宮ハルヒの憂鬱』はなんというか「そのようにも読める」作品であっても、そうした世界を破壊したいという欲望そのものは、なんというか宙づりになっているというか、なんとなくずらされている、という感覚がある。涼宮ハルヒが破壊したいのは退屈な日常ではあっても世界そのものではない。いや退屈な日常を破壊したい、という欲望が世界を破壊したい、という欲望に転化するのかもしれないが、なんとなく僕個人の肌感覚ではなんとなく違う、という気がする。じゃあその世界を破壊する欲望を正面から取り上げた作品はなんなのか、といえば、1995年と地下鉄サリン事件を題材として取り上げた『輪るピングドラム』がまさしくそういう作品だろうと。

 『輪るピングドラム』においては、世界を破壊するという欲望こそが、最強の敵として立ちはだかっている、とさえいえると思う。企鵝の会を動かす渡瀬眞悧は、「世界の破壊」を目的にしているわけだが、彼は自身を「呪いのメタファー」だという。彼が世界を破壊する根拠はおよそ筋が通っているとは思われず、その論理の飛躍に、ぼんやり「世界の破壊」みたいなものを願ってしまったりする僕個人の願望と非常に近しいものを感じざるをえない。だから眞悧は、そうしたぼんやりとした破滅の願望が具体化して人の形をとったものであり、その意味で「呪いのメタファー」なのだろうと思う。これはあまりに粗雑な連想だけど、あるいは涼宮ハルヒ的なる欲望のグロテスクな後継者こそ、渡瀬眞悧なのかもしれない。

 『輪るピングドラム』では、「呪いのメタファー」は愛の前にその欲望をくじかれるわけだけど、それでも眞悧は「列車はまたくる」という。世界の破滅を願う欲望は、たぶんまたそこかしこで顔をのぞかせる。眞悧的なるものは完全に敗れ去ることはない。呪いのメタファーは必然的にやってくるのだけど、そのたびごと、何事かがその呪いを打ち破らればならない。

 『アンダーグラウンド』という本は、私たちが身の内に巣くい、ときたま訪れる呪いのメタファーとなぜ戦わねばならないのか、それを教えてくれる。『輪るピングドラム』もそう訴えかける作品であったと思うのだけれど、この本のなかで反復される、「世界を破滅させたいという欲望が、個人の人生を破壊する」物語*1は、世界の破滅を願う欲望がいかに空疎なものなのか、それを突き付けてくる。「呪いのメタファー」に抗うのに、愛なんてものを持ち出すまでもなく、その愛を必然的に含みこんでいるであろう「この」人生があれば十分なのかもしれない。そんなことを思ったりしました。

 

 

 『輪るピングドラム』が頭をよぎってしまったので、見返しもせず言及してしまいまいた。作品の語りとしては極めて雑な感じがするので反省。

 


  『シン・ゴジラ』も、「世界の破滅を願う欲望」がくじかれるお話なのでは、という気もする。


 

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

 

 

 

 

*1:こういう言い方は極めて無責任な要約かもしれないが、そのようなものとして僕はインタビューを読まざるをえなかったのである。オウム真理教が「世界の破滅」を目指してサリン事件をおこしたなんて解釈は粗雑にすぎるとおもうのだが、そうした欲望の具体化として想起されるのは、そうしたテロ事件なわけで、その意味で「世界の破滅」とオウム真理教は結びつきうる、と思う。

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