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フィクションと可能性―映画『バクマン。』感想

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 実写映画版『バクマン。』を遅ればせながらみました。きちんとは読んでいなかった原作を映画みる前に読んでからいこう、と思っていたら読み進めるのにもたついて公開から大分時がたってしまった。原作は面白く読んだのですが、正直あんまりのれない部分もあって、実写版もまあサカナクションの「新宝島」を大音響で聞けたらいっかなぐらいの気持ちだったのですが、いや、大変度肝を抜かれました。以下で感想を。

 これは邪道ではない

 『週刊少年ジャンプ』。デカルトだのカントだのショペンハウエルだのが教養の必須科目だった時代はとっくの昔に過ぎ去った今、しいて共通の教養としてあげることができるのは、正直言ってこの漫画雑誌の看板漫画くらいである。なんていったら言い過ぎかもしれないが、この雑誌ほど多くの人に読まれている本は、まあ、日本においては存在しない。このくらいは言っても許されるだろうか。読者のアンケート結果を重要視するその方針によって、誌面では漫画家たちがしのぎを削って連載の枠を争い、毎年新たな漫画が始まると同時に、多くの漫画が打ち切られていく。そのジャンプを出版する集英社のビルの前に、二人の男子高校生は立つ。ジャンプで頂点を取る、その一歩を踏み出すために。

 早世した漫画家の甥、真城最高=サイコーと、彼の画力に目を付けた級友、高木秋人=シュージンがコンビを組んで漫画を描き、ジャンプの頂点を目指し、それとパラレルな真城の恋の成就が存在する、という大筋は原作同様だが、実写映画向けに様々な改変が加えられ、すっきりとした青春モノ、という印象が色濃くなっている。

 その実写の特徴がよく表れているのが主人公コンビの配役も含めたキャラ付けで、これがすごくいい。主人公コンビ、とりわけシュージンは、原作ではすましたガキ、という印象がべっとりとはりついていた。クラス内の位置関係を俯瞰して説明してみせるあたりは本当にこざかしいガキ、という感じ。とはいえその小賢しさが、彼らの頼る武器でもあるのだけれど。映画版ではそのどことなく小賢しい雰囲気が拭い去られていて、極めてポジティブな意味で馬鹿っぽく、高校生っぽい。原作序盤ではサイコーとシュージンは中学3年だったわけだけど、高校生の時点から物語が始まる実写版は、原作より年上なのに逆に子供っぽい、という逆転が生じている。

 これは演じる神木隆之介の纏っている「そこはかとなくいい奴っぽい雰囲気」のせいで、どうやってもすましたガキにはみえない、というのも大きい。そう考えると、配役が発表されたときの「配役逆じゃね?」ネットの反応は、「原作至上主義」的発想からは的を射ていて、しかし実写映画全体をにらんだ演出の戦略を鑑みれば近視眼的な批判にすぎなかった。神木の雰囲気だけでなく、原作では秀才だったシュージンからその設定をオミットし、「勉強も部活もやってこなかった」・「なんにもやってこなかった」と台詞で殊更に強調することから、そうした原作と比べて素朴な高校生にしたのは意図的な演出だろう。

 主人公二人を普通の高校生っぽくしただけでなく、映画版は漫画の要素をそぎ落とし、あるいは演出によって、全体的に漫画っぽさは後退し、「本当にありそうな感じ」というか、現実感が増した。それを象徴するのは染谷将太演じる新妻エイジで、原作のジャンプ漫画の世界から飛び出てきたような(ジャンプ漫画内のキャラをこう形容するのは倒錯している気もするけど)ずば抜けたエキセントリックさは影を潜め、なんとなく実在感のある人物として演出されている。漫画の擬音をやたらと口走る癖は原作だと「シュビビッ!」って感じだけど映画だとぼそぼそっと「シュビビ...シュビビ...」って感じ(伝われ)。彼だけでなく、漫画家も編集部も、どれも本物っぽい感じ。中井さんとか福田とか、マンガのテンプレみたいな振る舞いをする奴もいるけど。唯一、ヒロインである亜豆さんだけが極端に漫画っぽいけど、全体としては漫画っぽくはない、と僕は思う。それはジャンプ編集部や仕事場の美術の素晴らしさにも裏打ちされていて、はっきり本物っぽさがある。

 そうしたことで、映画全体の雰囲気ははっきり青春映画のそれに近づいた。だから実写版『バクマン。』は、作中で言及される王道/邪道の区別からいえば間違いなく王道の青春映画である。それは原作が『週刊少年ジャンプ』という土俵、少年漫画という文脈では「邪道」であることをはっきり意識して語られているのとは、はっきりと対照をなす。原作においては掲載されている『週刊少年ジャンプ』そのものを題材にして、その内幕を描く、というスタンスそのものが邪道の極致であったわけだが、映画館のスクリーンという土俵、実写映画という文脈の中ではそれによって別段邪道になるわけではない。だからこそ選び取られた、ストレートな青春モノとしてのエッセンスを抜き出し、それを突き詰めるという戦略は間違いなく成功している。

 そして何より、原作で小賢しさを最大の武器とした彼らがそれを奪われた実写版で、頼みにするものはなんなのか。それこそが、この映画の熱量を果てしなく増幅させた。

 

現実はフィクションによって形作られる

 サイコーとシュージンの武器はなんなのか、ということを語るためには、この実写版『バクマン。』における漫画の位相を確認する必要がある。

 原作ではどうしたって、「漫画のキャラクターが漫画を描く」という構図でしかなかったのが、実写版では当たり前ですが「実在する人が漫画を描く」場面が写されていて、それだけで、なんというかリアリティがある。叔父の苦労がしみ込んだ仕事場、インクによって汚れる体や服、そして何よりペンが線を引く音。漫画とはなにより、人の手でもって紙に刻み込まれるものなのだ、ということを強調する。

 もちろんただ漫画を描くという営為をそのまま写し取るのではなく、プロジェクションマッピングなんかを利用したという演出は視覚面でもまったく退屈しないし、サカナクションの劇伴もあいまってスタイリッシュ。とりわけペンの音が次第にまじりあっていつのまにかテクノ的な劇伴が流れ出すシークエンスの浮遊感の心地よさといったら。それに関連して、原作では全編通していささか単調のきらいがあったアンケートの順位を巡る攻防をマジでペンによるバトルに置換してしまった演出は思い切りがあっていい。

 話がそれましたが、そういうわけで、実写版では当然のごとく、漫画は人の手によってつくられる「フィクション」である、ということが浮き彫りになってくる。原作ではっきりしなかった境界が、くっきり浮かび上がっている、といってもいい。主人公二人が「亜城木夢叶」のペンネームを使うことなく、あくまで真城最高高木秋人の二人組として描くのも、その区別を際立たせる。「亜城木夢叶」というフィクションを仮構するのではなく、あくまで実在する人間として、漫画を描くという構図。漫画がフィクションであるために、漫画家は現実でなければならない。

 そうした漫画=フィクションは、現実に対してどのような意味をもつか。それは一つにコミュニケーションのツールである。福田、平丸、中井ら手塚賞で佳作をとった、個性豊かすぎる漫画家たちが、なんとはなしに打ち解けるきっかけは、『SLUM DUNK』を引用したおふざけ。この共通の話題としてのフィクション、っていうのは結構リアルだなと。原作で漫画が引用されてる場面って、ドラマ的には生硬な印象を受けたんですよね。序盤の父との会話にせよ、「諦めたらそこで試合終了ですよ」にしても。実写のこの酒の席の会話のとっかかりとしての引用、というのはそれに比べてナチュラルな感じがします。そして彼らがフィクションを強く内面化し、自身の心の内にその論理を刻み込んでいることが、クライマックスにおいて大きな意味を持つ。

 そしてそうしたコミュニケーションの手段として以上に、彼らの信念の結晶として漫画は、フィクションは存在するということにより大きな意味がある。「友情・努力・勝利」。『週刊少年ジャンプ』の掲げるお題目。大の大人が口にするのはちょっと躊躇する綺麗事。しかしそんな綺麗事を、胸中はどうあれ、伝え続けてきた人たちがいる。それが、『週刊少年ジャンプ』を背負って立つ漫画家たちであり、彼らを支え、ともに戦う編集者である。歯の浮くような綺麗事かもしれない。しかし、それを唱え続けてきた彼らがそれを信じずして、誰がそれを信じようか。フィクションにおいて綺麗事を掲げてきた男たちが、その綺麗事を現実へと持ち込む。それが俺たちの責任である、といわんばかりに。

 ここでも、「現実を(過剰に)参照したフィクション」であった原作が反転させられ、むしろ「フィクションを参照して現実を生きる」人々を描き出す。馬鹿げた無茶を通すため、このフィクションの理想を現実に持ち込み、さしあたっての「勝利」を得るクライマックス。それはフィクションの可能性がみせる希望の一端を描きえている。小賢しさをすてたサイコーとシュージンの最後のよりどころこそ、「友情・努力・勝利」という綺麗事であり、その希望があったからこそ、彼らの勝利は胸を撃つ。

 彼らはその瞬間、確かに勝利していた。とはいえ、その勝利が儚いもの、一瞬の輝きにすぎないという現実とも、彼らは向き合う。それは、勝利の瞬間に鳴り響く音楽が勝利を手にしたものたちのテンションと対照的に、むしろ抑制されたものであることからもわかる。さしあたって彼らの挑戦に一区切りがつき、それと同時に高校を卒業して晴れてふたりは「無職」になって物語は幕を閉じる。ジャンプでてっぺんをとるという目標も、思い人との約束も果たされないこの結末は、『週刊少年ジャンプ』風に言うならば、ある意味、「打ち切り」と似た感触をもつ。

 しかし、それがひとつの終わりであると同時に、すべての始まりであることはいうまでもない。だから、勝利の場面においてさえ抑制されていた音楽は、物語が再び駆動する瞬間にこれ以上なく高らかに鳴り響く。物語は打ち切られても彼らの人生は終わらない。彼らは弛まず、丁寧に線を引き続ける。彼らの夢はもう「先に行って」「ずっと待ってる」いるのだから。

 そういう意味で、映画『バクマン。』はこれまで『週刊少年ジャンプ』誌上で打ち切りの憂き目をみた無数の漫画たち/漫画家たちに対する救済であり、鎮魂歌なのかもしれない。一つの物語が終わっても、再び想像力をもってペンを動かし始めたのなら、また別の物語が始まっていく。そのうちのいくつかがまた多くの人に読まれ、そうすることで漫画という文化が生まれ、紡がれていく。多くの打ち切られた物語、読者の目に触れることのない物語を無数に含みこみながら。

 

 そんな与太話はともかくとして、サイコーとシュージンがこれからも歩き続けるのだということがこれ以上なく示されるこのラストシーンは、原作のそれよりはるかに好きです。この瞬間、原作ではそのうちに揺蕩い続けた川口たろうの夢の中から二人は完全に離脱し、彼らの、彼らのものでしかない物語を歩み始めたのだと僕は思います。そしてなにより、中井さんもまた再び戦い続けること、それがとにかくよかった。原作ではあてどなく彷徨し安住の地を与えられることのなかった中井さんの魂は、映画で確実に救われた。それがほんとうによかった。また観に行きたいです。

関連

原作読んでるときはそんな頭をよぎらなかったんですが、映画をみて『SHIROBAKO』を想起したりしなかったり。「漫画が人に読まれて初めて漫画」であるのと同様、アニメも多分そうで、アニメが視聴者に届くまでの「遠すぎ」る道のりを描いたのが『SHIROBAKO』最終話なわけじゃないですか。

「人生という冒険は続く」。

 

  結末がちょっと『ヒカルの碁』じみてて最高という声があります(僕の中で)

 

  映画版の結末は『SLAM DUNK』を想起したりも。

 

  サカナクションのエンディング曲『新宝島』が素晴らしくて素晴らしくて、それはともかく戦後漫画の起源をめぐる神話の捏造された始原といえば手塚治虫新宝島』なわけですが、これを意識したりしてるのだろうか。

新宝島

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バクマン。 コミック 全20巻完結セット (ジャンプコミックス)

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【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督・脚本:大根仁

‣原作 : 大場つぐみ小畑健

‣出演