吉見俊哉『ポスト戦後社会』を再読したのでメモ。
岩波新書のシリーズ日本近現代史の9巻にあたる本書は、1970年代から現在までを扱う。目次は以下の通り。
第1章 左翼の終わり
第2章 豊かさの幻影のなかへ
第3章 家族は溶解したか
第4章 地域開発が遺したもの
第5章 「失われた一〇年」のなかで
第6章 アジアからのポスト戦後史
目次を眺めただけでも「ポスト戦後」という時代を多面的に眺めていることがわかる。具体的には連合赤軍に代表される政治運動、高度成長後の消費社会化、そうしたなかでの家族の変容、地域開発などなどが取り上げられているのだが、それらを「通史」として語る軸として「グローバリゼーションのなかでの新自由主義的国家モデル・フレクシブルな資本編成の前景化」と「社会的なリアリティの虚構化」の二つが設定されている*1
そうした変化の中で、近代日本的なるもの、あるいは戦後的なるものが「終わって」いくのだと吉見はいう。
「戦後」から「ポスト戦後」へという、本書で扱う諸々の変化に通底しているのは、何かの時代の「始まり」ではなく、むしろ「終わり」である。*2
具体的には
1. 保守・革新の両者が前提としていた福祉国家体制の終わり
2. 外的自然との関係の変化
3. 内的自然=共同体の崩壊、自己のリアリティの喪失
の三点に要約できると思うのだが、見田宗介・大澤真幸らの議論を援用しつつ、象徴的な出来事に大きな構造の変化を読み取ってみせる手つきに唸る。
たとえば、永山則夫と宮﨑勤を対置し、後者のあり方に「家族」の変容を読み取ったり。
高度成長を経て、日本各地に広大な郊外が広がり、無数のニュータウンに林立する無数の「演技するハコ」に人びとの人生が閉じ込められていくなかで生じたのは、他者がいて、自分とは異なる他者たちとの関係性において社会が存在しているという感覚そのものの喪失であった。宮﨑勤も少年Aも、そのような他者=自己の存在感を回復するためには、どうしても想像力で祖父や神を召喚し、その目の前で他者であるかどうかはっきりしない相手を犠牲にしていかねばならないという考えに取り憑かれていった。*3
この見立ては見田・大澤の知見によるところが大きいとも思うのだけれど、それを通史を語るという歴史叙述の中に違和感なく位置づけ、「ポスト戦後」という時代像を提示しえているあたりに、本書の魅力があるのだろうな、と感じる。
再読にもかかわらず非常におもしろく読んだのだけれども、自分のことばで要約しようとするとどうにもうまくいかないもどかしさ。とりあえずこんなところにしておいて、また書き足したりなんなりするかも。しないかも。
関連
再読のきっかけはこの本でした。
本書の前に書かれた『親米と反米』、本書ののち、東日本大震災を経て書かれた『夢の原子力』もそれぞれの視角で戦後/ポスト戦後社会の歴史叙述を試みた本だと思うんですよね。『都市のドラマトゥルギー』も『万博幻想』もそうだと思いますが。そこらへんも再読したさ。
とりあえず読書中のメモを置いとくだけおいときます。
○はじめに
「日米関係にあくまで準拠する立場から見るならば、最初の「戦後」は占領期の終了とともに終わり、その後高度経済成長の時代が「ポスト戦後」であり、グローバリゼーションの進行によって再び「戦後」がアメリカによってもたらされたということになるだろう。」p.ii
第二次世界大戦後はむしろ「戦時」
冷戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争
「戦後」から「ポスト戦後」は見田宗介の「理想」および「夢」の時代から「虚構」の時代と名付けた段階と対応 70年頃が境界
東京タワーからディズニーランドへ
連合赤軍からオウム真理教へ
永山則夫から宮﨑勤へ
グローバリゼーション
○第1章 左翼の終わり
軽井沢駅南口 高度成長期に開発が進む
(北側は戦前から開発)
「国土開発と消費社会が結託する象徴的な空間」p.13
その開発が進んでいく南側で連合赤軍あさま山荘事件 1971-2
「60年代からの新左翼運動の決定的な敗北を象徴する出来事」p.4
「60年代の若者たちの感性と運動が、すでにそこに内在していた論理を推し進めていったときに生じた、一つのありうる帰結」p.4
「革命戦士の共産主義化」
「自己否定」の心情の極限化©︎北田暁大
「「意味を失う運命にあった男たちの「新左翼」のことばと、時代の変容に忠実に反応しつつあった女たちの消費社会的なことば」が真っ向から衝突」p.12 by大塚英志
「思想による自己実現」の時代から「消費による自己実現」の時代へと転位していく中間でおきた出来事
連合赤軍の前史 60年安保
戦後日本における「政治の季節」の終わりとされるが世界的にはより先鋭的な政治の時代へ
60年代末になると日本の学生運動は街頭行動主義と政治的象徴主義という二つの特徴を顕著に帯びていくby小阪修平
革命という観念にこだわり孤立化 労働運動の脱政治化も孤立化の要因に
ベ平連、ウーマンリブ、沖縄
ネットワーク型の運動の嚆矢としてのベ平連
60年代の労働運動、学生運動の盲点沖縄
新川明の反復帰論
コザ騒動
三つの異なるタイプの歴史の主体
1. 50年代には大衆的な政治運動の担い手であったこともある労働運動や左翼政党は高度成長のシステムに組み込まれ、政治的な変革の主体ではあり得なくなった
2. 学生たちの運動は、現実の政治的変革への具体的な展望や回路を失って、理念的な空想のなかで自己閉塞的な過激化へ
3. 組織化された運動、若者たちの観念的な運動の周縁で、一人ひとりの個の肯定から出発する緩やかなネットワークが社会運動のスタイルとして浮上
○第2章 豊かさの幻影のなかへ
1970年3月 大阪万博
メディアによる宣伝
「ジャーナリズムは自らの足場をますます見失っていった。」p.48
「豊かさ」と平準化
消費社会と都市の若者
「流通革命」
西武百貨店 パルコ
イメージ先行の戦略 堤清二
「堤らは、常に「イメージ」を「現実」に先行させることで、現実の不完全さを隠蔽するどころか、むしろそれを公然と作り変えていこうとする方向に踏み出していた。」p.53
パルコから無印良品へ
トレンディドラマの流行
舞台はマイホームの食卓から都市空間へ
池田勇人の「所得倍増」から田中角栄の「列島改造」へ
田中内閣のときには最早開発の前提条件は国際的な要因により崩壊
固定為替相場制から変動為替相場制への対応に失敗
リクルート事件
未公開株の譲渡という手段 ロッキードよりむしろ後のライブドアや村上ファンドの事件に類似
重厚長大から軽薄短小への変化
沖縄海洋博
○第3章 家族は溶解したか
変容する日本人の意識 NHKの調査より
性役割分業から家庭内協力型へと志向が変化
しかし…
「70年代以降に生じたのは、家父長的な近代家族から友愛的な近代家族への変化であって、近代家族を基盤とするジェンダー体制そのものの変化ではなかった。しかもそのような「友愛」は、家庭のなかに閉じられた形でのみ可能なものであった以上、ある種のフィクション性を帯びざるを得ない性格のものであった。」p.84
その軋轢、矛盾から80年代末までには家族の結合を融解させていく変化が
家族と同時に会社の結合力も弱まる
1970年代以降、大都市部と農村部での意識の差が縮小、画一化がすすむ
「郊外」の形成 ロードサイドの店舗
ニュータウンの開発
「演技するハコ」「かつて予感され、夢みられたコミュニティではなく、商品化された住宅や住宅地に生きる人びとの暮らしを、さまざまな商品とそれに付与されたイメージを通して意味づけ、形作ってゆく「意味創造」と「文化変容」の場所」p.94 若林幹夫『郊外の社会学』の孫引き
イメージ戦略の変化
機能主義から和風シンボルへ、そしてテーマパーク的な差異化の論理へ
家族の分解 新しい個人志向のメディアの生活空間への浸透と関わる 電話の使い方の変化、各部屋に置かれるように
永山則夫から宮﨑勤へ
「「自分」という存在の確からしさの崩壊」p.102
「高度成長を経て、日本各地に広大な郊外が広がり、無数のニュータウンに林立する無数の「演技するハコ」に人びとの人生が閉じ込められていくなかで生じたのは、他者がいて、自分とは異なる他者たちとの関係性において社会が存在しているという感覚そのものの喪失であった。宮﨑勤も少年Aも、そのような他者=自己の存在感を回復するためには、どうしても想像力で祖父や神を召喚し、その目の前で他者であるかどうかはっきりしない相手を犠牲にしていかねばならないという考えに取り憑かれていった。」p.109
内閉化する自己、フィクションとしての家族の過剰
1. 巡幸する人間天皇(1940年代後半から50年代半ば)
2. 天皇より皇太子と皇太子妃に注目が集まる(50年代末から60年代)
3. 「革新」気分のなかで天皇への関心が弱まる(60年代末から70年代)
4. 「やさしい祖父」として再浮上(80年代)
「「昭和」から「平成」への移行は、単なる元号の変化ではない。「昭和」の終わりは、ある国民共同体の時代の終わりであった。」p.116
○第4章 地域開発が遺したもの
「ポスト戦後社会が直面する一方の現実が、家族の変容や自己の閉塞であるとするなら、もう一方の現実は、農村の崩壊と自然の荒廃である。」p.118
豊かさの裏面
水俣病
「公害」から「環境問題」へ
加害者/被害者が曖昧に
開発の路線
「開発」か「環境」かを横軸
「中央集中」か「地方分散」かを縦軸
苫小牧、むつ小川原の開発失敗
新全総の「開発」志向から三全総の「環境」志向へ 後者は理念倒れ
p.136
80年代 中曽根内閣は明確に大都市中心の政策へと転換
リゾート開発ブーム
夕張
農村の人口減少
都市に流出することによる「社会減」ではなく、死亡数が出生数を上回る「自然減」に
○第5章 「失われた一〇年」のなかで
阪神大震災
「市場原理導入と収益性向上を追求する都市政治の正当性そのものに疑問を投げかけた」p.161
オウム真理教
SFアニメやテレビゲームとの親近性
「虚構の時代」の極限
「単なる虚構への内閉というよりも、その虚構をリアルなものとして生き、そこにおいて外の世界では不可能な身体性の奪還を企てていったことの結末」p.164 大澤真幸
中曽根政権から小泉政権への連続性
福祉国家体制から新自由主義へ
国鉄民営化と郵政民営化
拡大する格差 中流崩壊
少子高齢社会
○第6章 アジアからのポスト戦後史
「グローバリゼーションが変動の最大のモメント」p.198
企業移転と産業空洞化
「今日、「日本」は二つの異質な存在に分裂しつつある。一方には、アジア諸国に広がり、現地法人や工場を設立、越境的な情報と物流のネットワークを形成するグローバル資本としての「JAPAN」がある。他方で、そのようなグローバル化する資本に取り残され、崩壊する地場産業や限界状態に達した農村のなかでもがく「国土」がある。両者は20世紀初頭、日清・日露戦争の勝利で帝国化した日本社会における「外地」と「内地」の分裂とはまた異なる仕方で乖離し、もはや同じ国民国家の異なる領域としては片づけることができないほど、大きく隔たった存在になりつつある。」p.207
後者を切り捨てる流れ
海外旅行、文化移民
「このようなプロセスは、日本社会の気化、それまで囲い込まれて緊密に結びついていた有機体が蒸発し、相互の結びつきを失って拡散していくプロセスでもあった。」p.213
日本社会の異種混淆化、都市の多民族化
海外での「日本」の消費
沖縄 軍事的体制の変容の兆し
○おわりに
「1990年代以降、日本では経済・文化的にも、軍事的にも、戦後的体制が急速に崩壊していく。」p.233
歴史的主体としてのアメリカの存在感
「「グローバル」という地平には包摂され得ない無数の人びとの声や心情が、一体化する世界といかに結びつき、新しい社会のどんな歴史的主体を可能にしていくかに、21世紀の歴史は賭けられているのだ。」p.238
○あとがき
「歴史とは、時間的である以前に空間的なものである。さまざまな地域にさまざまな経験の連なりがあり、それらは支配、抵抗、誘致、搾取、交流、連携、移動等々、無数の関係で結ばれている。歴史とは、この空間の広がりの記述であり、単一の「通史」は存在しない。」p.
239
「日本近現代の時間や主体が自壊していく過程」p.239
「「戦後」から「ポスト戦後」への転回は、同じ日本史のなかの段階以降なのではない。むしろそうした歴史の主体の自明性がぐらつき、空洞化しているのである。私たちは<歴史>を語る実践を手放したいとは思わないが、「日本史」がもはや不可能になる時代を生きている。」p.240