『ひるね姫』をみました。しみじみとよくて、たくさんの人が映画館に足を運んでくれたらと思わずにはいられない作品でした。以下感想。
現実と溶け合う夢の世界
2020年、東京オリンピックを間近に控えた夏の日。岡山県倉敷市では、そんな東京の喧噪などテレビの向こう側の出来事でしかなくて、だから森川ココネはいつも通りの日常を送っていた。食事も済ませず朝から車いじりに没頭する父だけが、彼女と一緒に暮らす家族。母は幼いころに亡くなってしまっていて、父も思い出を語らないから、彼女は写真でしか母を知らない。でもそんなこと、彼女の生活にとって大きな問題じゃないのかもしれない。父とその悪友たちに囲まれて、うとうとしながら屈託なく日々を生きている、森川ココネはそういう女子高生にみえる。
しかし、高校生活最後の夏休みを迎えた彼女に、大きな事件が降りかかる。突然警察に連行されてしまった父、父のタブレットを探しに家に踏み入る怪しげな男たち。彼女は父を救うため、父のタブレットやバイク、そして奇妙に現実とリンクする「夢」の力を使って、ココネは走る。
『ひるね姫』は2020年という目と鼻の先にある至近未来を舞台に、夢と現実が溶け合った奇妙な冒険譚を語ってみせる。人が眠りに落ちる時、多分まさに眠りに落ちる「瞬間」は決して意識されることはない。わたしたちは、多分、決定的な境界を越えるような形で眠りに落ちるのではなく、気付いたらいつのまにか眠りに落ち、夢を見る。それと同様に、ココネもまたいつの間にか眠りに落ち、そしてそれにともなって夢の世界が立ち現れる。そのような現実と夢とがシームレスにつながっ夢と現が等価なものとして映し出される語りが、『ひるね姫』を特徴づけていて、地に足のついた現実世界と、機械と魔法の文明世界が溶け合って作品世界を形作っている。
昨年公開され多くの観客を得た『君の名は。』においても夢が重要なファクターだったが、『ひるね姫』もまた夢が物語のキーとなっていて、そこに奇妙な同時代性というかリンクというか文脈が発生しているのだけれど、しかし両者で夢の位相はまったく異なってもいる。『君の名は。』でみられる夢は、現実における他者の人生だったけれど、『ひるね姫』においては父のかつて語った寝物語がベースになっていると思しき、スチームパンク調*1のファンタジー世界。
その夢の世界の出来事がなぜか現実にも影響を及ぼしていることがココネにも自覚されるのだけど、それがなぜそうなのか、という理屈・論理が物語のなかでは(おそらく)示されてはいない。だから、この物語はSFではなくてファンタジーだと思うのだけれど、そういうカテゴライズの話はどうでもいいのでひとまず措こう。この映画にとって重要なのは、現実と不可思議に繋がった夢の世界を舞台にしたことで、現実ではありえないアクションを挟み込みつつ、同時に現実においても2020年という時代が強く意識されたドラマが展開できるようになったことだ。人間たちがダイナミックに躍動するさまであったりとか、巨大人型兵器と怪獣のような巨大な化け物=オニとの戦いであったりといったファンタジックな外連味と、いま・ここの現実と切り結ぶドラマとの融合にこそ、『ひるね姫』の唯一無二の魅力はある。
『東のエデン』の向こう側へ
そのようにして夢の世界は映画全体の印象を彩り豊かにしていると思うのだけれど、『ひるね姫』の物語上の仕掛けの一つは、その彼女のよく知っていたはずの夢の物語世界が、まったく別様に読み替えられていくことにある。自分自身を主人公として語られていたと思い込んでいた物語が、実はまったく別の人物こそが主人公だった。その「正しい」解釈に到達することはすなわち、ココネにとっていままで知ることのなかった、父と母の物語を知ることを意味した。
そうしてぼんやりと露わになっていく、自動運転車をめぐる親子の確執のドラマに、神山健治監督が『東のエデン』でも取り上げた、世代間対立の物語を読み込むことができる。『東のエデン』は、滝沢朗という人間が「王子様」として、「オヤジ」と「若者」の対立を止揚していこうとする戦いだったと要約できるのかもしれないけれど、『ひるね姫』はまさしく「姫」の奔走を描いているわけで、その意味で『東のエデン』的なテーマの変奏として『ひるね姫』を読むことはできるかもしれない。しかし森川ココネは滝沢朗ほど、そうした世代の対立を自覚的に背負っていないというか、そういう方向での使命感に駆られて行動してはいない。しかし彼女の冒険の結果として、祖父と父の和解が訪れて、『ひるね姫』のドラマは終わる。
『東のエデン』ではまさしくそれが問題になっていた世代間対立を、それを直接の問題にはしないのだけれども、結果としてそれが解消されるような形で、映画の幕は閉じる。そのことに、『東のエデン』を踏まえつつも、さらにその先の夢を提示しようとしている映画として、『ひるね姫』はあるのではなかろうか。森川ココネは生まれは「やんごとなき」姫かもしれないけれど、たぶんそれ以上に、特に何の際立った特徴もない、そういう若者であることに意味があるのだと思う。
世代の対立の問題をまさに問題として直接立ち向かい解決するのではなく、夢をみるように自然に生きている若い世代がいること、そのことにきっと意味がある。彼女たちはただぼんやりしているだけかもしれないけれど、そのぼんやりとしてあいまいな夢の可能性に大人たちが信を置くことができさえすれば、世代の差なんて取るに足らないものなのだということ、それが『ひるね姫』の見せてくれた幸福な未来の可能性なのだと思う。
はい、というわけで大変幸福になりました。ありがとうございました。
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『東のエデン』感想。
2015年に行われたトークショー。今読み返すと、『ひるね姫』はここで語られていることをまったく 裏切っていないのでは、という気がして、神山監督すげえなとなりました。
最近映画館で「夢」の映画かかりすぎではないか問題
【作品情報】
‣2017年
‣監督:神山健治
‣原作:神山健治
‣脚本:神山健治
‣キャラクター原案:森川聡子
‣音楽:下村陽子
‣アニメーション制作:シグナル・エムディ
‣出演