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〈強さ〉が強さだったころ――増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』感想

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

  ここ数日増田俊也木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』を読んでたんですが、これがえらい面白かったので感想を書き留めておきます。

  木村政彦という柔道家をご存じだろうか。僕は名前すら聞いたこともなかったし、あの『グラップラー刃牙』の板垣恵介もその名は「アンテナに掠った程度」だったというから*1、知る人ぞ知る、という人物だったのだろう。おそらく、本書が世に出るまでは。本書は格闘技にとくに興味のない僕にすらその評判が聞こえてくるくらいの本なわけだから、本書をきっかけに(もしくはグレイシー一族の活躍によって)その名は再び知られるようになったといっていいと思うのだが、どうやら久しく忘れられた、というかポジティブな言及されることの少ない人物だったようだ。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われ、昭和前期に無敗を誇った最強の柔術家であったにもかかわらず。

 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』はその木村政彦の生涯を辿る評伝である。その核に据えられるのは、木村の名声を一気に地に落とした1954年の力道山との対決、所謂「昭和の巌流島」での敗北である。なぜ最強無敗の柔道家だった木村は、力道山に敗れたのか。そして敗れた後になぜ復讐を企てなかったのか。その謎をフックとして、木村とその周辺の人物たちの足跡を、関係者の証言や資料を拾い集めて辿っていく。

 木村とその師、牛島辰熊のあまりに破天荒な修行と勝利のエピソード、グレイシーとの対決などなど、内容は笑っちゃうくらいおもしろくて読ませるのだけど、それは本文を読んでいただくとして、本書の真価はまた別のところにある。2008年から2011年にかけて連載された本書は、本文およそ1200頁。単行本化にあたっても連載時のゆらぎをそのまま残したとあとがきで著者は語っているが、その揺らぎこそ本書の強烈な魅力になっている。

 文章から滲むのは、木村政彦という柔道家の名誉を回復したい、という著者の強い願い。だから力道山ではなく木村政彦寄りの記述になっていて、力道山の卑劣な台本破りの行為がなければ、あるいは木村が本気で力道山を倒しにかかれば、間違いなく木村が勝っていた、そのような確信が底に流れている。しかし力道山戦をめぐる記述になって、その確信は揺らぎ始める。木村は確かにかつては最強の柔術家だった。しかし、力道山戦当時の木村はどうであったのか。もはや一線を退きトレーニングを怠って、しかも前日に酒を喰らう体たらく。一方の力道山はその日に向けて着実に体を作って決戦に備える。そして当時の映像をみた現代の一流の格闘家たちの証言。それらの事実に直面した著者は、こう認めざるをえなくなる。1954年のあの対決のとき、力道山木村政彦より強かった、と。

 木村を救おうとする著者の意志が、無数の資料と証言を取集したその努力こそが、逆にその対決において木村は負けるべくして負けたのだという事実を明かしてしまい、木村を殺す結果を導いた。その皮肉ともとれる結末を前に葛藤し苦しんだ、その意志と事実とのあいだの緊張関係みたいなものが書きつけられているこの個所こそ、本書のクライマックスを成す。

 そこから敷衍して本書の内容から離れたおしゃべりをさせてもらうと、木村政彦力道山の対決の結末は、「強さ」というものの意味が次第に変容していく時代の一つのメルクマールを成すのではないかと感じた。木村政彦が最強だったころ、「強さ」はたぶんもっとシンプルだった。肉体的に、技術的に優れ、相手をそれで打ち負かせることこそ強さの証だった。そういう強さを〈強さ〉と呼ぼう。木村が天覧試合を制し、柔道界の頂点に立った時代は、まさに〈強さ〉こそが「強さ」だった時代だったのだろう。大日本帝国の時代はおそらく、柔道家にとってそういう時代だった。

 しかし敗戦後、柔道家GHQ占領下で権威を剥奪され、木村も牛島も食うや食わずの状況で、食べるためにその〈強さ〉を使わねばならない、そういう時代がやってくる。それがプロ柔道、ゆくゆくはプロレスにつながっていくわけだが、そのなかで格闘技はショーの要素を帯び、資本主義的な力関係がその中に侵入してくる。身体能力や技術だけではなく、いかに会場をおさえ、プロモーションをうち、観客を動員するのか、そういう手腕こそが問われる時代へと移り変わってゆく。

 そこでは何よりも勝てる状況を整えること、そしてそれが金銭を呼び込むような状況を創り上げることが「強さ」になっていく。レスラーやレフェリーに給料を支払っている、その関係性が戦いのなかにも否応なく流れ込む。そしてその試合の勝敗はメディアによって流通することで、ますますその「強さ」は強固なものになる。そのような時代に最も適合した人物の一人であり、そしてそうした「強さ」のあり方を切り開いたのが、力道山というプロレスラーだった。

 木村政彦力道山に負けたのと同時に、新たな強さの在り方に負けたのだ。木村政彦の圧倒的な〈強さ〉はそれだけでは最強を保証してくれるものではなくなっていたのだ。そのように強さの意味が次第に移り変わっていく時代に生きざるをえなかったところに、木村政彦という人間の悲劇はあるのかもしれない。しかしその木村は、最後まで〈強さ〉への希求を続けたこと、そしてそれは次代へと託され、そこで成就をみたことも語られる。その意味で、著者が愛を込めて書き綴った〈強さ〉が強さだったころの物語は、現在にも流れ込んでいるのかもしれない。

 

 というわけでめちゃくちゃ面白かったんですが、なんというか本書で語られる力道山像って、『喧嘩商売』・『喧嘩稼業』の佐藤十兵衛‐田島彬的な強さの原型、という気もするのですよね、なんとなく。

 

 


 

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)
 
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(下) (新潮文庫)
 

 

 

*1:文庫版下巻の解説より