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映画館、あるいは不完全な神の座――野崎まど『[映] アムリタ』感想

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)

  『正解するカド』が話題になってたのでついうっかり野崎まど『[映] アムリタ』を読んだんですがこれがえらいおもしろかったので感想書いときます。核心部分に触れるネタバレを行いますので、未読の方はご留意ください。

天才がすべてを支配する

  男は映画制作に誘われる。大学の映画サークルの、自主制作映画の。そこで天才と出会う。天才監督にして比類なき役者、最原最早と。彼女の描いた絵コンテの尋常ならざる魔力に魅入られた男は確信していた。この映画は間違いなく心に残る映画になると。あるいは、最原の才能は紛れもなく本物であると。そして映画は完成をみる。そして彼女は行方をくらます。男は彼女を探す。彼女を見出す。そして物語には幸福な終わりが訪れるはずだった。

 映画制作をめぐる青春物語は、最後の最後でその真の相貌をあらわにする。男の歩んだ物語は、他者の感情をいともたやすくコントロールする映像を作り出すことのできる最原最早による台本をなぞっていたに過ぎなかった。男の人格すら、物語が始まる前に最原によって書き換えられていたことが明らかになるわけで、いわば私たちはそれと知らされず最原の演出したドラマ――映画制作を通じて女性の謎を解き、そして結ばれるという予定調和のハッピーエンドが定められていたドラマを読み進めていたのである。

 その男、二見遭一の人格、というか趣味嗜好などが書き換わっていた、ということは周囲の人間に多少なりとも違和感を与えずにはおかないだろう、と当然推測ができるわけだが、本書の語りは二見を以前から知る人物と彼との交流が極めて慎重に排されているという印象を受け、だからその違和感は表面化しない。その違和感が顔を出すのは序盤、二見のバイト先のレンタルビデオ店の店長との会話で、「映画の見方」をめぐるやりとりがあるわけだけど、まさかここから二見の人格のトリックまで連想が飛躍することはないだろう。だから私たちはおそらく、彼女が姿を現す前から彼女によって操られていることに気付くことはない。そういう仕方で、天才は私たちを支配する。その意味で、彼女の天才は神に匹敵するといえる。

 

作品に裏切られる神

 とはいえ、彼女が世界すべてを完全に御しきれなかったことも、私たちは知っている。いくら映像を通して他者の感情をコントロールし、別の人格さえ植えつけるほどに強力な力を持っていても、彼女がすべてをコントロールできるわけではなく、ある意味では彼女のコントロールできることなど、取るに足らないものでしかないのだから。なぜなら彼女がほんとうに全能の存在ならば、そもそも彼女の恋人は死んだりするはずはなく、彼女が彼の代わりを造る必要もなく、だからこの物語はそもそも語られなかったはずだから。だから、ある意味でこの『[映] アムリタ』は、神の恐るべき全能性によって我々を打ちのめす物語であるが、同時にその神の不完全さも記してしまっている、そのような両義性をふくみもつ。

 彼女は天才的な映画制作者であるという。しかも、世界を映画の如く演出することすらできる。彼女は台本を拵え、演出を施し、フィルムに収める。彼女にとって映画と現実は同義。つまり作品世界自体を映画およびフィクションのメタファーとして捉えることができるだろう。彼女は完璧に、自分のもくろみ通り映画=世界を演出した。しかしそれ以前に彼女は世界=映画に完璧に裏切られてもいる。そのこと裏切り自体がこの映画=世界自体の前提としてある。

 一読して、僕はこの作品は圧倒的な神の前に人が膝を屈した、そのような読後感をもった。しかしそれはあくまで表面的な印象に過ぎず、実際は神もまたすでに敗北を喫しているのだと気付く。だから『[映] アムリタ』は、神をも裏切る映画、すなわち自走して最早創作者の手から離れたフィクションの悪魔的な魔力をこそ語っているのではないか。

 

 はい、というわけで大変面白かったです。野崎まど作品はまったく未読だったので、せっかくですから刊行順に読んでいくつもりです。

 

 

[映]アムリタ (メディアワークス文庫 の 1-1)
 

 

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なんとなく指を動かしてたら思いもよらなかったことがおもいつくかなと思ったんですが、結局陳腐な感想になってしまった感じ。

 

エクリチュールと差異 上 (叢書・ウニベルシタス)

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