プライムビデオで『彼氏彼女の事情』をみていました。以下感想。
時に、西暦1990年代末。日本は戦後最大の経済的不況にあえいでいた。相次ぐ連鎖式倒産、増加を続ける失業率、目に余る青少年の凶悪犯罪など、まさに、世紀末と呼称されることばのイメージによって翻弄されるにふさわしい、場所と時代になっていたのである。
そこで彼女と彼は出会う。違う仕方で自身の人生を演じ続けてきた二人が出会う。
津田雅美による漫画を、庵野秀明がアニメ化。『新世紀エヴァンゲリオン』以後、実写映画『ラブ&ポップ』を挟んで、再びテレビアニメの監督を務めた作品で、だからある種のエヴァっぽい演出が少女漫画を侵食している感じがある。あからさまなメタファーとして挿入される信号機、フェティッシュな電信柱及び電線、とりわけ夕焼けと夜に映える校舎、などなど。
一方で、とりわけ物語の終盤において、庵野秀明=碇シンジ的な、ある種の私小説じみた様相を呈した(というよりはそうした読みを誘発する環境がかつてあった/もしくはいまだにある、ように思うのだが)『新世紀エヴァンゲリオン』および劇場版(無論所謂旧劇)とは対照的に、本作における彼氏と彼女、宮沢雪野と有馬総一郎は、碇シンジとくらべるとあからさまに客体化された、仮構されたキャラクターとして立ち現れている、という気がする。
しかし、キャラクターの人格が、ただクリエイターによってつくられている、というだけでなくて、人格のある種の虚構性が当のキャラクター自身にすら自覚的に(物語の進行にともなって)把握されるようになる、という構造が、この作品の核心をなしている、ように思う。人格を場面場面で仮構し、あるものは自覚的に、あるものはそれと知らずに、振る舞うことでしか、人と人との接触はありえない。これが作品世界をつらぬく法則であるように思うのだ。
私たちの生きるこの場所は、仮構された人格によって喜劇とも悲劇ともつかないドラマの演じられる舞台なのであり、だから彼女が演じようとした学園祭の舞台が、あえてこの時間のなかで演じられる必要もないのだ。それはまさしく屋上屋を架すようなものなのだから。
しかし、すべては演じられる舞台であり、すべての人間は仮構された役者に過ぎないとしても、あるひとつの舞台に、あるいはひとつの役柄を、それが舞台に過ぎず役柄のひとつの過ぎないとわかってはいても、なにか大事なものを賭けなければならないことがある。その大事なものが賭けられる場面は、あるいはその予感もまた、この演じられる舞台のなかに書き込まれているのであり、それこそがたぶん、尊いものなのだ。
われわれは現在、いまを<演じる>ことの呪縛のなかにいる。だがしかし、その呪縛を解き放つのも、いま、ここで<演じる>こと自体なのだ。*1
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【作品情報】
‣1998-9年
‣監督:庵野秀明、佐藤裕紀
‣キャラクターデザイン:平松禎史
‣美術監督:佐藤勝
‣音楽:鷺巣詩郎