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架空の地名とその意味――プルースト、『君の名は。』、漱石

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)

 ここ半年くらいプルースト失われた時を求めて』をちまちま読んでいるのだけど、この長大な小説のなかには実在する地名と架空の地名が混ざり合って独特の世界を形作っている。そのことから連想したとりとめのないことを、以下に書き記しておこうと思う。

  『失われた時を求めて』の第1篇第1部、すなわちいちばんはじめの章のタイトルは「コンブレー」。たぶん作品のなかでもっとも知られたマドレーヌの挿話はここに書き込まれているのだけれど、章題のコンブレーという固有名詞は語り手が少年時代を過ごした土地の名前である。プルーストはこのコンブレーの風景を丹念かつエモーショナルに書くものだから、うっかり現実に存在するものかと勝手に思っていたら、モデルとなっている場所はあるのだけれど、地名自体は架空。もっとも、モデルとなった場所イリエは、この偉大なる小説にあやかってイリエ=コンブレー(lliers-Combray)と呼ばれて理宇そうだから、現在は実在する地名に「なってしまった」といえなくはないけれど、ともかくプルーストが生きていた時代にあっては架空の地名だった。

 『失われた時を求めて』のなかでもう一か所、非常に印象に残る場所の地名も、架空の名が与えられている。それは語り手が病気の療養のために訪れるノルマンディー地方に位置するリゾート地、バルベック。こちらはカブール(Cabourg)がモデルとされている。他にも架空の地名は山ほどあるのだろうが、僕はフランスの地理に明るくないのでここで列挙するのは困難だ。

 一方、実在の地名のもちろん出てくる。その代表例はパリ。しかしパリのなかでも通りの名前なんかは架空だったりするようなので、現実のパリの写像として作品世界のパリが存在するわけではなさそうではある。

 この架空の地名と実在の地名の混在はいかなる意味を持つのか。たぶんそんな議論はすでになされているだろうからぐぐってみたら、ちょうどよさそうな論文がヒットした。

http://www.shotoku.ac.jp/data/facilities/library/publication/education-gaikoku45_02.pdf

 架空の土地は以下のような機能をもつと上記の論文は指摘する。

コンブレーは,架空の土地であることによって,実在の地名が保持し続けているであろう歴史的,地理的,文化的な呪縛からも,「現在」からも,「過去」の思い出からも解放され,しかしながら作品の小説形式やその芸術性を確保するために恣意的に作者自身が選び取る様々な要素を,作者の思いのまま内包させることが可能な場所であり,それはひとつの言わば文学空間における「理想郷」としての役目を担っているのである。

  ユートピアというのは本来「何処にもない場所」というニュアンスを含む言葉だということを踏まえると、「理想郷」という役割はあたっているように思われる。

 『失われた時を求めて』に限らず、フィクションにおいて実在の地名と架空の地名とが混在することは珍しいことではないだろう。たとえば、『たまこまーけっと』/『たまこラブストーリー』のうさぎ山商店街は、実在している商店街をモデルにしているとはいえ架空の存在だが、作品世界のなかには「東京」が、おそらく私たちの生きる社会と同様の固有の重力をもつ場所として提示されてもいる。また『君の名は。』においても、実在する東京と架空の糸守という二つの場所が物語の中心的な舞台となる。

 このふたつの作品を上の議論から考えるならば、『たまこまーけっと』/『たまこラブストーリー』のうさぎ山商店街はコンブレーとおなじく一種の「理想郷」という表現がしっくりくる。一方で『君の名は。』においては、糸守は「理想郷」として提示されているとは到底いいがたい。なぜ糸守は架空の固有名を帯びねばならなかったのか、というのは別のところで書いたのでここでは詳述しないが、結論だけいえば、どこにもないがゆえに、あらゆるところに偏在しうる可能性をもつ場所として、糸守はあったのではないかと僕は考えている。

 いよいよ連想が飛躍してとりとめがなくなってきたが、僕がこの架空の地名の話で非常に気になっているのが、夏目漱石坊っちゃん』のラストで突如提示される「小日向の養源寺」である。ここで付随する「だから」は日本文学史上最も美しい「だからだ」とか、そういう話ではなくて、現実の養源寺は小日向ではなく本駒込にあり、小日向にある寺は本法寺という。しかし、『坊っちゃん』の結部で示される寺は、本駒込の養源寺でも、小日向の本法寺でもなく、「小日向の養源寺」なのだ。

 この唐突に示される架空の場所の名を説明するのには、うえで示した論理では明らかに不十分である。そういう意味で僕には非常に謎なんだけど、夏目漱石だしもう研究されてるんじゃないかとか思うのですが、ちょっと探す努力をしてないので、もしあれだったら教えてください。それはそうと、僕はあした、永観寺に行こうかと思っています。調布市の北の隅、野川のそばにある。

 

 

 

阿修羅ガール (新潮文庫)

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 ペルソナ5もまた架空の地名が現実の東京にぶっこまれてると思うんですけど、その地理感覚ってけっこうおのぼりさんの感じを再現してていい感じだと思うんすよね。

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