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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

ふたたび反逆の神話――『ペルソナ5』感想

ゲーム

ペルソナ5 - PS4

  えー、ようやく『ペルソナ5』のエンディングをみまして、大変よかったです。久しぶりにゲームを最後までやりました。というわけで感想を書き留めておきます。ネタバレが含まれるのでその点ご留意ください。

 呪いと反逆

 少年。少年は故郷を追われる。なにゆえに?それは彼が正しいことを成そうとしたがゆえに。その行動が、強く大きな力の逆鱗に触れたがゆえに。少年は強く大きな力によって犯罪者の烙印を押さる。その呪いによって、少年は故郷を追われ東京に向かうが、そこでも呪いはついてまわる。強く大きな力によって押された烙印は、少年を社会からつまはじきにする。だから、少年は闘わねばならない。大なり小なりの力で、それぞれ呪いを受けた少年少女とともに。それが彼の物語である。

 「トリックスター」と名指される少年を主人公にして、人の認知世界に侵入して悪党を「改心」させる「心の怪盗団」として、世に蔓延る弱者をしいたげる大人たちと戦っていくのが、『ペルソナ5』の物語の大筋。真夜中に生じる「影時間」のなかで、異形のものたちとペルソナ使いが戦う『ペルソナ3』、地方都市でおきた殺人事件の解決のため、テレビのなかの異世界に潜り込む『ペルソナ4』とは打って変わって、主人公たちは明確に、大人たちに抗う反逆者として描かれる。

 とはいえ『ペルソナ5』は、『ペルソナ3』・『ペルソナ4』から大枠のシステムを継承してもいて、おおよそ1年の期間のなかで、毎日の行動をスケジューリングしつつ物語上の目標を達成していくことで、ストーリーが進行していく。このシステムがストーリーと極めて密接にかかわりあい、その洗練されていないがゆえに各所で感じざるを得なかった退屈さが最後に決定的な意味をもったのが『ペルソナ3』だった。そういう意味で、このシステムはあくまで『ペルソナ3』を語るために絶対的に必要とされたものであり、『ペルソナ3』の結末のためにこそ用意されたものだった、と僕は思っていて、シリーズを重ね初発の『ペルソナ3』でみられたストーリーとの関わりは正直薄れていっている。

 以上、それは仕方ないことなのかもしれない。しかしストーリーの要請という意味は薄れたが、作品を重ねるごとにこのシステムも極めて快適に洗練されてきている、という感じを受けて、『ペルソナ4』で既に完成形にあったのでは、という気もするのだけど、『ペルソナ5』でも快適さはさらに磨きがかかっている印象を受けた。とはいっても。ストーリーのかかわり、という意味では『ペルソナ3』よりは弱いにせよ、『ペルソナ4』も『ペルソナ5』も、作品のなかで一つ一つの行動を積み重ね、その世界で流れる時間を共有することが最終的に大きな意味をもつ。だから十分にシステムと絡み合ったストーリーの語りが情動を揺さぶる構造にはなっているとは思う。

 『ペルソナ5』でそれがどのような意味で効いてくるかといえば、日々の生活の中で街の雑踏で響くざわめきであり、インターネット上の「怪盗お願いチャンネル」で示される大衆の支持率である。東京という場所のリアリティを表現するためかと思われた雑踏の演出が、物語も佳境にはいって、それがあくまで耳慣れた日常と化してきたころに残酷にその意味をあらわにする瞬間、物語の「真の敵」とでもいうべきものもまたあらわになる、これはめちゃくちゃよかった。

 主人公たち怪盗団がそれまで戦ってきたのは、規模の大小に違いはあれど、個人個人の自由を踏みにじり、虐げてきたものたちだった。そうした悪党どもが世界を悪い方向に導いているのであって、それぞれの悪党どもを改心させれば、世界はよくなる、そういう素朴な理念がそこにはあった。たしかにそれは、怪盗団の仲間をはじめある一定の人間を救ってもきた。しかし、それだけで世界は真によい方向に向かうのか?その問いへの回答が、最後に怪盗団が突き付けられ、そして残酷に牙をむく。かつて自由でありたいと願った大衆は、その自由の重みに疲れ、苦しみ、もはやそれを手放そうとしている。

 「反逆」という意思の挫折はこれまで無数に歴史のなかに書き込まれている。たとえば、1960年代のカウンターカルチャーの運動。その運動を総括して、ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターはその著書『反逆の神話』のなかでこう述べる。「カウンターカルチャーの反逆の数十年は何も変革しえなかった」*1と。それはいかにして失敗したのか。その要因は以下の一文に端的に言い表されている。

 60年代の反逆を特徴づけたカウンターカルチャーの思想と資本主義システムのイデオロギー的要請になんら対立はなかったのだ。*2

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 

  カウンターカルチャーは資本主義のシステムとずるずるべったりになり、その意義を喪失した、という見立ては何も彼らだけのものではなくて、例えばその時代にカウンターカルチャーと近しい場所で生きたとされるトマス・ピンチョンが書いた『LAヴァイス』、あるいはその映画化である『インヒアレント・ヴァイス』でも、彼らの「反逆」がいまや、資本主義のシステムに取り込まれ、システムは反逆を巧み利用して利益を引き出していることが示唆される。

 じゃあ反逆することにまったく意味はないのか?そうかもしれない。しかし、反逆の無力を描き出しつつ、その可能性のひとかけらは救ってみせたのが『LAヴァイス』=『インヒアレント・ヴァイス』だった。ピンチョンが描いた1970年のアメリカと、2016年の日本では状況は全く異なる。だから、『インヒアレント・ヴァイス』の探偵ドックと、『ペルソナ5』のトリックスターとでは立ち位置も全然異なる。『ペルソナ5』のトリックスターは、『インヒアレント・ヴァイス』の探偵ドックと違って異能の力を持っている。けれど、たぶん彼らの本質的な違いはそこにはない。そんなことはどうでもいいことだ。じゃあ何が本質的な違いかといえば、その歴史的な位置である。トリックスターは、すでに「反逆がシステムとずるずるべったり」であるところから始めなかればならない、反逆すら仕組まれたものであるというところから始めなければならないのだから。

 『インヒアレント・ヴァイス』におけるシステム、〈黄金の牙〉はその全容を霧の中に隠していて、誰にもその姿を正確にはとらえられない。だからそれを打倒することは絶対的に不可能なわけだけど、『ペルソナ5』は違う。神話的なモチーフをコラージュした世界観を打ち立ててきた『女神転生』シリーズから枝分かれしたこの作品は、だから、システムを「神」という一個の存在者に具象化することができる。カウンターカルチャーがメタファー的な意味で「神話」だったとすれば、こっちはマジの「神話」なのだ。人びとの集合無意識によって運命を捻じ曲げられ、「反逆の神話」をなぞることを強要されたトリックスターは、その「神話」の軛から解き放たれ、ふたたび「反逆の神話」を打ち立てる。

 この「神話」は夢物語のたぐいなのかもしれず、私たちは無邪気に破滅を願う人間であり続けるのかもしれない。こうした集合無意識は、『ペルソナ3』でも最後の敵として立ちはだかったわけで、私たちのなかから消えさることなどないのかもしれない。『輪るピングドラム』だったら、そのような感覚を「呪い」と呼び、それが具象化したものは「呪いのメタファー」と呼ばれるだろう。だから、『輪るピングドラム』において「列車はまたくる」と予告されたように、『ペルソナ3』から時を経て『ペルソナ5』でもそれが最後の敵として立ちはだかった。 この終末論的な退廃がちらつくなかで、トリックスターの「反逆の神話」がふたたび語られ、それが私たちの心に充填されたこと、そのことが私たちの認知を変え、ちょっとは世界がマシになる、そういうことがあってもいい、そんなことを思いました。はい。

 

関連

  『ペルソナ5』は『インヒアレント・ヴァイス』なんだよなってずっと言っていきたい。

 


 

  『インヒアレント・ヴァイス』だということはつまり舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』でもあるということで、「認知」が物語のカギを握るという意味ではむしろ『ペルソナ5』は『ディスコ探偵水曜日』の語りなおしなのかもしれず、なにを言いたいかというととっとと再読したいということです。

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

  『ペルソナ4』の感想めいた文章。


 

*1:p.14

*2:p.8

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