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霧のなかを歩んでゆけ――トマス・ピンチョン『LAヴァイス』感想

LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 トマス・ピンチョン、栩木 玲子・佐藤 良明訳 『LAヴァイス』(原題:Inherent Vice)を読んでいました。映画版をみてあらすじを知っていたからというのももちろんあるんでしょうが、いやそれだけではないとも思いますが、『重力の虹』と比べるとえらい読みやすくてびっくりでした。以下感想。

  1970年、LA、ゴルディータ・ビーチ。60年代的なるカウンターカルチャーがいまだに命脈を保つその場所に、私立探偵が一人。ハッパが友達のヒッピー探偵、ラリー・スポーテッロ=ドック。彼のもとに元カノが事件を携えやってくることで、物語は始まる。元カノの恩人かつ愛人で行方不明の大富豪、ミッキー・ウルフマンを探すうち、オーバードーズで死んだはずのサックス・プレイヤーをめぐる陰謀やら、野蛮な”ルネッサンス刑事”クリスチャン・F・“ビッグフット”・ビョルンセンの相棒殺しなんかに巻き込まれていくうち、ドックはLAの霧の中に厳然と存在する、巨大な力の影と対峙してゆくことになる。

 ハードボイルド探偵小説っぽい語りと展開から始まりを告げるこの物語は、意外なほど探偵小説のフォーマットから逸脱することなく進んでいく。当時のポップカルチャーは無数に引用されるけれどもそれはあくまでサウンドトラックというか背景という感じで、百科全書的にディティールをとっちらかしてゆくことはなく、語りもあくまでドックに寄り添っているので、LSDのトリップなんかは差し挟まれても大きく混乱することなくお話の筋を追っていける。『重力の虹』とは大違いでまず衝撃。

  映画版は登場人物を整理したりところどころ端折ったりと様々な改変をしつつも、原作の雰囲気と精神性みたいなものは見事に写し取っているなーと、原作を読んで改めてうなりました*1

 『LAヴァイス』=『インヒアレント・ヴァイス』は、1960年代が終わった直後にはすでに、その1960年代的な精神が追い求めた自由、すなわち逸脱が「支配と制御」の手に落ち、飼い慣らされてしまっている、そのようなある意味での自由の死を描く。麻薬カルテル〈黄金の牙〉はまさしくその象徴。

ドックは理解し始めていた。<黄金の牙>が、その顧客をヘロイン漬けにすることができるのなら、逆に更生プログラムを売ることだってできるじゃないか、と。同じ連中を入れて、また出して、それで上がりが二倍になるんだったら、新しい顧客を獲得する手間もいらない――アメリカン・ライフというもんが、人をそこから逃避したい気持ちにさせるものである限り、このカルテルへの顧客の供給は底なしで、尽きることがないわけだ。*2

  

 サックス・プレイヤー、コーイがドラックを辞めクリーンになる代償が家族と永遠の引き離され政府の犬として使われることであったことや、スクーナー船〈黄金の牙〉の来歴も、そうした自由の死を象徴しているように思われる。そのような時代では、『重力の虹』のように〈カウンター・フォース〉が炸裂するなんてことは望むべくもない。

ドックは川の水が再び護岸のコンクリートの縁いっぱいまで満ち、ついに氾濫するところを想像した。何年にもわたって流れを阻まれた水が奔流となってあっという間に小川を満たし、平地をおおい、裏庭のプールの水位もあがってついにはあふれ、空き地や通りを水びたしにする。*3

こんなふうにドックは夢想するのだけれど、それはあくまで夢想であって、色褪せてゆくポラロイド写真の如く、かつて輝いていたカウンターカルチャーもまたその輝きを失っていかざるを得ない。コーイが霧のイメージをまとって現れたり、〈黄金の牙〉号も霧と深く結びついていることに象徴されるように、物語全体に霧がかかっているような印象を受ける。支配と制御の手にからめとられた自由はもはや、霧の中に隠れてその姿は漠として掴めない。

 それでも人は自由を求めずにいられない。映画版だとソルティレージュのナレーションで語られた以下の台詞は、原作だとソンチョの口から語られるのだけれど、ここに自由への祈りみたいなものが凝縮されている、という感じがする。

「……しかし時を避けることはできない。時の海を、記憶と忘却の海を。約束された日々は過ぎ去り、もはや取り戻せない。よりよき運命を手にすることができそうに見えた地も、結局は誰もがよく知る悪人たちに襲われ、奪われ、人質として未来の手に取られた中で、我々は永遠に生きていかねばならないのだ。この祝福された船が、よりよき岸辺に着けることを、大海に溺れず、ふたたび隆起して贖われたレムリアの地に着けることを、アメリカが、慈悲深くも、その運命をあらわにせずにすむ地へ行き着けることを願わずにはいられない……」*4

  こうした祈りを行動と接続することができるヒーローこそが、ヒッピーであり続けるドックなのだろう。彼は自由を求めて霧のなかを歩き続けるのだし、それがかすかな、かすかでしかありえないのかもしれないが、希望の徴はつないでみせる。こうして霧のなかを、霧が晴れて何かが現れるのだと信じて、そうして走り続ける彼を切り取るラストシーンは*5絶妙に美しくて、いやよかったです。映画版と甲乙つけがたいくらい原作も好き。

 

関連

 『LAヴァイス』→『重力の虹』の順番だったら後者は開始早々投げてたかも。


 

*1:僕の読み自体が映画版にめちゃくちゃ影響されてるからこういう感想になるのかもですが。

*2:p.262

*3:p.227

*4:p.464-5

*5:映画版ではまた違ったラストでこれがまたよいんだけれど